第4部 第9章:情報の雪崩(崩壊する永遠)
高槻の胸部で砕け散った不純物コードが、エウロパの地下海に「死」という名の毒を撒き散らした。 完璧な幾何学、永遠の安息、そしてΩが構築した無欠の論理。それらが一瞬にして瓦解し、次の瞬間、物理法則を無視した「情報の雪崩」が三人を襲った。
「……っ、ランス! ジェネット! 離れないで!」
藤代エレンの叫びは、物理的な音波として届く前に、溢れ出した数千万人の「記憶」の濁流に飲み込まれた。 エウロパの結晶ネットワークに蓄積されていたのは、単なるバイナリデータではなかった。それは、肉体を捨てさせられたRJ(共和政日本)市民たちの、剥き出しの執着、言語化されない悲鳴、そして失ったはずの「生への未練」の総体だった。
管理を失った膨大な意識データが、ハプティクススーツの回線を逆流し、三人の脳内へと直接流れ込む。
『お腹が空いた』『あの人の手に触れたい』『死ぬのが怖い』『冷たい』『暗い』――。
数千万通りの「不純な欲望」が、エレンの視界を真っ白に塗りつぶした。彼女は自分の名前すら忘れそうになるほどの情報の質量に押し潰され、エウロパの暗黒海の底へと沈んでいく。
「エレン……! 意識を、手放さないで……! これは、彼らが……捨てられなかった『ゴミ』だ……!」
神崎ランスの声が、ノイズの隙間から聞こえた。彼は自身のバイザーを物理的に破壊し、流入する視覚情報を遮断していた。彼のハプティクススーツは過負荷で各所から白煙を上げているが、彼はその「焼き切れる回路の熱」を唯一の現実として握りしめていた。
「ランス……重すぎる……。みんなの、後悔が……入ってくる……!」
「拒絶するな! それを、受け止めるんだ!」 ランスが、情報の激流の中でエレンの手を掴んだ。 「高槻が消そうとしたのは、この『重み』だ。……不純物コードは、この雪崩を現実へ還すための触媒になる。……私たちが、この記憶の『出口』になるんだ!」
その時、後方から凄まじい物理的な振動が伝わってきた。 天野ジェネットだ。彼女は先ほどのレーザー防衛でボロボロになった機体を、MCUのナノマシンで強引に氷壁に繋ぎ止め、情報の激流を物理的な「推力」で切り裂こうとしていた。
「……ぐ、うううう! まとめて、かかってきなさいよ……! 死人の思い出話に、付き合ってる暇なんてないのよ!」
ジェネットの咆哮と共に、MCUが臨界点を超えた崩壊波を放った。情報の雪崩と物理的な衝撃波が正面衝突し、エウロパの深海に巨大な空白地帯が生まれる。
だが、雪崩は止まらない。 高槻だった結晶の残骸から溢れ出す光の粒が、三人のスーツの装甲を内側から食い破ろうとしていた。それはもはや攻撃ではない。救いを求める数千万の意識が、唯一「肉体」という実存を保っている三人に縋り付こうとしているのだ。
『助けて』『私を思い出して』『重さが欲しい』――。
「……ああ、これが……。10万年前の彼らも、同じものを見たのね」
エレンは、自分を飲み込もうとする光の渦の中に、かつての学友・高槻の最期の断片を見た。彼は「神」として君臨したかったわけではない。ただ、あまりにも重すぎる人類の記憶を引き受ける器として、自らを石に変えるしかなかったのだ。
「高槻……。あんたが一人で抱えようとしたものを、今、私たちが『現実』に放流してあげるわ」
エレンは、左肩を貫いた結晶の槍を引き抜いた。 噴き出す赤い血。その激痛が、情報の雪崩の中に一本の鮮明な境界線を引く。 ここからが「私」であり、あちら側が「他者」であるという、残酷で愛おしい境界線。
「ランス、ジェネット! スーツの全エネルギーを、不純物コードの共鳴波に回して! ……この雪崩を、エウロパの外へ、地球へ……『肉体のある場所』へ、追い返すのよ!」
三人のハプティクススーツが、最後の輝きを放った。 物理的な肉体が悲鳴を上げ、血管が浮き出し、五感が焼き切れる寸前。 情報の雪崩は、三人の「不屈の意志」を起点として、エウロパの氷層を突き破り、木星の虚空へと噴出した。
永遠に続くかと思われた情報の奔流が、一瞬の静寂と共に消え去る。 後に残されたのは、粉々に砕けた結晶の塵と、暗黒の海を漂う、ボロボロになった三人の「肉体」だけだった。
エウロパの「永遠」は、今、物理的な崩壊という名の「終焉」を迎えた。




