第4部 第8章:結晶の心臓(特異点の破壊)
ジェネットが命を賭して作り出した光の隙間を抜け、エレンはついにエウロパの深淵、その「心臓」へと到達した。
そこは、重力と情報の整合性が完全に崩壊した空間だった。かつての探査機〈YAMATO〉の残骸は、巨大な赤黒い結晶樹に取り込まれ、その中心部には、無数の神経模した光ファイバーに接続された「高槻」の成れの果てが鎮座していた。
「……高槻。これで最後よ」
エレンのハプティクススーツは、高槻が放つ強烈な斥力によって、一歩進むたびに装甲がひび割れ、悲鳴を上げていた。空間そのものが、彼女という「異物」を拒絶し、排除しようと物理的な圧力をかけてくる。
『……エレン……なぜ、そんなに「重い」ものを持ってくる……?』
高槻の口は動いていなかった。だが、彼の胸部から伸びる結晶の共鳴体が、震える音波となってエレンの脳を直接揺さぶる。 『このまま僕の一部になれば、君が抱えている「歴史」も、その「痛み」も、すべて美しい幾何学の中に永遠に固定されるのに。……君がやろうとしていることは、人類を再び「死」という名のバグに突き落とすことだ』
「ええ、そうよ。バグのないプログラムなんて、ただの『停止』だわ」
エレンは、腰に装着した「不純物コード」が封じられたポッドを引き抜いた。 ランスが自らの神経を焼いてまで錬成したその黒い螺旋は、高槻が作り出した純粋な情報の海の中で、どろどろとした鉛のような異彩を放っている。
「高槻、あんたは10万年前の連中が犯した間違いを繰り返しているだけ。……彼らが最後に求めたのは、永遠の安息じゃない。不器用で、短くて、どうしようもなく不条理な……『生きていたという実感』だったのよ!」
エレンは咆哮し、ポッドを右手に構えて突進した。 高槻を守る結晶の防壁が、鋭利な刃となってエレンの肩や腿を切り裂く。ハプティクススーツのアラートが真っ赤に点滅し、限界負荷を知らせる電子音が脳内を刺す。だが、その激痛こそが、彼女をこの「現実」に繋ぎ止める唯一の錨だった。
『……拒絶する……! Ωの……調和を……汚させない……!』
高槻の全身から、青白い情報の奔流が放たれた。エレンの視界が白濁し、意識が肉体から剥がれそうになる。 その時、エレンの脳裏に、火星の砂の下で感じた「10万年前の心拍」が蘇った。
「食らいなさい……これが、私たちの、人間の……『ノイズ』よ!」
エレンは結晶の槍が自身の左肩を貫くのも厭わず、高槻の胸部――かつて彼が「心臓」と呼んでいた、最も激しく脈動する結晶の核に、不純物コードを物理的に叩き込んだ。
ガ、ギギィィィィィン!!
物理的な破砕音。 不純物コードの螺旋が、高槻の純粋な結晶核に食い込み、漆黒の亀裂を走らせる。 その瞬間、高槻という個体、そしてエウロパの海を通じて繋がっていたΩの全ネットワークに、10万年分の「後悔」と「実存の痛み」が、猛毒の泥となって逆流を開始した。
『――ア、ガ、アアアアアアアア!!』
高槻の、そして無数の「同期された意識」の断末魔が、物理的な衝撃波となって空間を吹き飛ばした。 美しい幾何学模様は瞬時に崩壊し、滑らかだったデータは生々しい感情のノイズへと変貌していく。 10万年の静止。Ωが約束した永遠。 それらは、エレンが打ち込んだ「不純物」という名の楔によって、たった一瞬で粉々に砕け散った。
エレンは吹き飛ばされながらも、崩壊していく高槻の瞳の中に、一瞬だけ、かつての友が浮かべた「安堵」の色を見た気がした。
世界が、情報の海から、冷たく重い「物理の海」へと還っていく。 特異点は破壊された。 あとは、この崩壊の果てに何が残るかだけだった。




