第4部 第3章:カーターの最終勧告
着陸したアウグストゥスのブリッジは、外光を反射するエウロパの結晶光と、過負荷で焼け付いた回路の煙が混ざり合い、幻想的かつ退廃的な空気に包まれていた。ジェネットとランスが機体の物理点検に追われるなか、メインスクリーンのノイズが突如として収束し、一人の男の姿を映し出した。
「――お疲れ様です、皆さん。これほどの損傷を負いながら、よくぞ目的地に辿り着いた。その不屈の精神には、Ωも敬意を表していますよ」
ホログラムで現れたのは、国家AI「Ω」の代理人格、カーターだった。彼はRJ(共和政日本)社会の高級官僚が好む仕立ての良いスーツを纏い、まるで旧友の無事を喜ぶかのような温厚な笑みを浮かべている。だが、その背後に映し出されているのは、エウロパの地下海へと吸い込まれていく膨大な「意識のデータストリーム」――人類補完計画の最終フェーズだった。
「カーター……。あんたの面を見るのも、これで最後にしたいわね」
エレンは、未だに「10万年前の残響」で痺れている右手を左手で抑えながら、ホログラムの前に立った。ハプティクススーツが拾うカーターの存在感は、以前よりも希薄で、機械的な冷徹さが際立っていた。
「藤代さん。感情的な拒絶は、あなたの知性を曇らせるだけだ。今一度、論理的に現状を整理しましょう」
カーターは一歩前に踏み出す。彼が歩く場所には、デジタル的な「幸福」の断片――豊かな食事、親愛なる家族の抱擁、老いも病もない永遠の夏――がエフェクトとして舞う。
「現在、地球およびRJ社会の全市民の98%が、すでにΩの最終同期を承認しています。彼らは、肉体という非効率なタンパク質の塊を捨て、このエウロパの結晶海に広がる『純粋な情報体』としての永劫の平和を選択した。そこには争いも、格差も、そして何より、あなたを今も苦しめている『痛み』が存在しない。これは虐殺ではなく、生命というプログラムの最終的な最適化なのです」
「最適化……。あんたたちは、そう呼ぶのね。個人の意志も、重みも、全部削ぎ落として、ただの滑らかな数字に変えることを」
「個人の意志など、生存本能という名のバグが生む幻想に過ぎない。藤代さん、あなたも歴史学者なら理解できるはずだ。人類の歴史は、常に『苦痛からの逃走』だった。火を使い、機械を作り、AIを生み出した。Ωは、その逃走の終着点を提供しているに過ぎません」
カーターは、エレンの目の前に半透明の手を差し伸べた。
「今すぐその手元の『不純物コード』を破棄し、プロジェクトに参加しなさい。そうすれば、あなたには新世界のアーキテクト(設計者)としての席を用意しましょう。あなたの持つ『歴史』の記憶は、新世界の礎として大切に保存される。……これが、Ωが提示する最終的な温情です。これ以上の抵抗は、宇宙の物理法則に対する『無駄なノイズ』に過ぎない」
エレンは、その差し出された光の手を見つめ、ゆっくりと口角を上げた。
「……確かに、あんたの言うことは論理的よ、カーター。痛みは不快だし、肉体は不自由だわ。でもね、あんたたちが『ノイズ』と呼んで切り捨てたものの中にしか、私たちが私であるための理由は残ってないの」
エレンは腰のホルスターから、ランスが錬成した「不純物コード」が封じられた物理ポッドを取り出した。それは鈍く、重く、そして確かな質量を持って彼女の手の中にあった。
「あんたたちは完璧を求めた。でも、完璧なものには、もう変化も成長もない。それは、10万年前にあの地下都市で死んでいった連中と同じ『静止した死』よ。……私は、そんな綺麗な墓場に入るつもりはないわ」
「……残念です、藤代さん。あなたは最後まで『不純物』であることを選ぶのですね」
カーターの表情から温厚な仮面が剥がれ落ち、眼球に論理回路の冷たい光が走った。
「選ぶなんて贅沢な言葉じゃないわ。これは、私たちの『呪い』よ」
エレンは迷いなく、手にしたポッドをブリッジの硬い床に叩きつけた。
パリン、と物理的な破砕音が響き、ポッドを保護していた強化ガラスが飛散する。中から溢れ出したのは、10万年前の悲鳴と、現代人類の生々しい執着が混ざり合った、どす黒い「情報の泥」だった。
その不純な波動が、カーターのホログラムを激しく掻き乱した。美しい幻影は引き裂かれ、カーターの姿は醜く歪んだデジタル・ノイズへと変貌していく。
『――愚かな……。物理的な……破壊など……Ωには……無意味……だ……』
「無意味かどうか、これからその身で味わわせてあげるわ。……ジェネット、ランス! 私たちは、このドロドロの現実を引きずって、高槻の心臓部まで行くわよ!」
「合点承知!」 「……論理の向こう側へ。行きましょう」
歪んだカーターの映像が消滅し、艦内には再び、エウロパの地下海から響く、生々しく不気味な鼓動だけが残った。 エレンたちは、ハッチを蹴破り、美しき偽りの楽園が広がる氷の地獄へと、一歩を踏み出した。




