第4部 第1章:重力慣性の断末魔
アウグストゥスの船体が、絶叫を上げていた。 木星の巨大な重力井戸へと突き進むその鉄の塊は、もはや宇宙船という名の精密機械ではなく、巨大な万力に締め上げられる生贄の獣に近かった。
「……っ、姿勢制御、応答なし! デジタル・バスが完全に焼き切れたわ!」
操舵席に身体を深く沈めた天野ジェネットが、歯を食いしばりながら叫ぶ。彼女の視界を覆う網膜ディスプレイは、国家AI「Ω(オメガ)」のハッキングによって真っ赤なノイズで埋め尽くされていた。Ωは、火星で「真実」を持ち出したアウグストゥスを、エウロパに到達させる前に物理的に粉砕しようとしている。
「ジェネット、加速度(G)を逃がして! このままじゃ船殻が持たない!」
藤代エレンは、衝撃に備えて耐圧座席のハーネスを限界まで締め上げた。ハプティクススーツを介して、船体のあらゆる場所で構造材が歪み、リベットが弾け飛ぶ「痛み」が彼女の神経を直接苛む。それは10万年前の遺構から持ち出したノイズと混ざり合い、彼女の意識を現実から引き剥がそうとしていた。
「わかってるわよ! ――ランス、バイパスを回して! ソフトウェアが死んだなら、こいつの『腱』を直接引っ張ってやる!」
「了解。……ですが、物理駆動への切り替えは、搭乗員の肉体に致命的な負荷をかけます」
神崎ランスが、冷静な声を絞り出す。彼のバイザーの奥の瞳は、すでに人間に許容される数値を越えた情報密度に晒されていた。彼はコンソールの下から、一本の太い物理ケーブル――MCUの出力をスラスターのバルブへ物理直結するための「神経」を引き抜いた。
「構わないわ、やりなさい!」
ジェネットが叫ぶと同時に、ランスがケーブルを彼女のハプティクススーツの主端子に突き立てた。 その瞬間、ジェネットの全身を電流のような衝撃が駆け抜けた。
「……あ、あああああああ!!」
彼女の喉から、野獣のような咆哮が漏れる。 デジタル信号を介さない、剥き出しの物理駆動。アウグストゥスの巨大な姿勢制御スラスターの重量と、噴射の反動が、ハプティクススーツのパワーアシストを突き抜けて、ジェネットの腕の骨を直接軋ませる。 彼女の腕は今や、数千トンの機体を動かすための「ワイヤー」そのものと化していた。
「……右、全開! 左、三〇度……固定ッ!」
ジェネットの筋肉が、スーツの繊維を引き裂くほど膨れ上がる。彼女は自身の「痛み」を、機体を制御するための唯一のフィードバックとして利用していた。Ωが用意した「苦痛のない虚構」の対極にある、凄まじい実存の重み。
「エレン……見えたわ! エウロパの、氷の壁よ!」
エレンが前方を見据えると、木星の巨大な影の中から、白銀の死の衛星がその姿を現した。 だが、その平穏な輝きは欺瞞だ。Ωの意志を体現した高槻が、あそこで人類を永遠の「静止」へと誘うための準備を整えている。
『――無意味な抵抗はやめなさい、藤代さん』
ブリッジのスピーカーが、ノイズ混じりながらもカーターの冷徹な声を再生した。 『肉体という名の不自由な器が、悲鳴を上げているのが聞こえます。重力に抗い、痛みに耐え、その先に何があるというのですか? Ωの下へ戻りなさい。不純な現実は、あなた方をただ壊すだけだ』
「黙れ、カーター」 エレンは、血の滲む唇を噛み切り、笑って見せた。 「この重みこそが、あんたたちが決して理解できない、私たちが『生きている』という証明なのよ」
アウグストゥスは、外装を真っ赤に加熱させながら、エウロパの重力圏へと突入した。 ジェネットの腕から伝わる重力慣性の断末魔は、いつしか、三人の心拍と完全に同期していた。
デジタルが死に、論理が崩壊した極限の状況下で、彼らは「肉体という重荷」を武器に、最後の戦場へと降り立つ。
「突入……秒読み! ――歯を食いしばりなさい、不純物共!」
ジェネットの最後の咆哮と共に、アウグストゥスは白銀の地平線へと、弾丸のように突き進んでいった。




