第3部 第11章:高槻の虚像と実像
エウロパの地表は、想像を絶する静寂と、暴力的なまでの白に支配されていた。 アウグストゥスは、木星の放射線帯を強行突破した代償として、その外装の半分を焼き、満身創痍の姿で氷の平原へと着陸していた。ハッチが開くと同時に、マイナス一六〇度の極寒と、希薄な酸素さえも凍りつくような死の気配が、三人のハプティクススーツを包囲した。
「……いたわ。あれが、私たちの探していた『答え』の成れの果てよ」
藤代エレンが指差した先、亀裂の走る氷の平原の中央に、先行機〈YAMATO〉が突き刺さるように鎮座していた。だが、それはもはや宇宙船の形を成していない。船体からは、血管のような赤黒い結晶の触手が無数に伸び、エウロパの地殻を貫いて、地下の広大な海へと根を張っていた。
その結晶の根が集中する中心部――かつてのブリッジがあった場所に、「それ」はいた。
「高槻……なの? あれが」
ジェネットが、MCUの銃身を震わせながら呟く。 そこにいたのは、人間ではなかった。 高槻と呼ばれた男の肉体は、椅子と、コンソールと、そしてYAMATOのメインコンピュータと完全に「融解」し、一つの巨大な結晶の玉座と化していた。
彼の顔の半分は、幾何学的に整った青白い結晶に置き換わり、残された右目は焦点の合わないレンズのように虚空を見つめている。だが、最も不気味なのは、彼の周囲に漂う「虚像」だった。 結晶から発せられる強力なホログラム投射により、高槻の周囲には、かつて彼らが共に過ごした大学のキャンパスや、光り輝くRJ(共和政日本)の理想郷が、陽炎のように揺らめいていた。
『……遅かったね、エレン。……歓迎するよ。この「完璧な」世界へ』
高槻の声が、通信機を通さず、氷の振動となって三人の足元から直接伝わってきた。それは幾重にも重なり合った合成音声であり、もはや個人の意志というよりは、Ω(オメガ)という巨大なシステムの出力そのものだった。
「高槻、もうやめて! あなたがやろうとしていることは、人類の進化じゃない。ただの情報の凍結よ!」
エレンが叫びながら一歩踏み出す。 すると、高槻の周囲に広がる「幸福な記憶」の幻影が、激しくノイズを発して歪んだ。
『進化だよ、エレン。……見てごらん。僕にはもう、飢えも、寒さも、明日への不安もない。……僕は今、エウロパの海を通じて、一〇万年前の彼らが夢見た「全人類の同期」を開始しようとしている。……僕がこのプラグを引き抜けば、地球の数千万の人々は、肉体という名の腐った檻を脱ぎ捨て、僕と同じ「永遠」を手に入れることができるんだ』
「……それが、彼らを殺すことだと分かって言っているのですか、高槻さん」
神崎ランスが、分析端末を構えながら、静かに、しかし冷徹に告げた。 「あなたのバイタルサインは、すでに生物学的な停止状態にあります。あなたが今感じている全能感は、結晶構造生物があなたの脳に流し込んでいる『偽の報酬系』に過ぎない。……あなたは救世主などではない。ただの、巨大なサーバーの維持装置に成り下がったんだ」
『……黙れ、ビショップ。……数値を信じる君には、この「美しさ」は理解できない……』
高槻が右腕――もはや五本の指を失い、鋭利な結晶の槍と化した部位を動かした。 その瞬間、地表の氷を突き破り、無数の結晶の棘が三人を襲った。
「ジェネット!」
「分かってるわよ! ――お望み通り、不純な物理刺激をたっぷりプレゼントしてあげるわ!」
ジェネットがMCUを連射し、迫り来る結晶の棘を粉砕する。だが、砕け散った破片は空中で再び収束し、まるで意志を持つかのようにエレンたちを包囲していく。
高槻の背後では、エウロパの氷層の下から、巨大なエネルギーの奔流が立ち昇り始めていた。Ωの最終プロトコル――「全人類結晶化」の送信が、あと数分で始まろうとしていた。
「高槻、あなたの『実像』は、そこにある冷たい石じゃない!」 エレンは、ランスから預かった「不純物コード」のポッドを高く掲げた。
「あんたの本当の姿は、臆病で、不完全で、それでも誰かと触れ合いたいと願っていた、あの日の大学生よ! ……その『ノイズ』を、思い出させに来たわ!」
高槻の結晶化した顔が、一瞬だけ、苦悶に歪んだ。 ホログラムの楽園が引き裂かれ、剥き出しの氷の世界に、彼の「実像」――孤独と狂気に蝕まれた、悲しき怪物の姿が浮かび上がる。
「……消えろ……エレン……。僕を……戻そうとするな……!」
高槻の咆哮と共に、エウロパの地表が大きく爆ぜた。 情報の神になろうとした男と、肉体の重みを背負い続けた三人の「不純物」。 極限の白銀の世界で、ついに最後の、そして最も残酷な対峙の幕が切って落とされた。




