第3部 第10章:木星の瞳の下で
アウグストゥスの船窓の外には、もはや「宇宙」という名の虚無は存在しなかった。 そこにあるのは、圧倒的な質量と電磁波の嵐が渦巻く、木星という名の生きた神の「体内」だった。
「放射線レベル、さらに上昇。船体の遮蔽板が悲鳴を上げています。……これ以上は、ハプティクススーツの防御閾値を超えます」
神崎ランスの声には、もはや機械的な冷静さはなかった。彼のバイザーには、目に見えない死の矢――高エネルギー粒子が船殻を透過し、自分たちの細胞を破壊し始めていることを示す無数のノイズが走っている。
船体は、木星の巨大な重力に捕らわれ、内側から引き裂かれるような潮汐力に晒されていた。ギギギ、と構造材が軋む音が、死のカウントダウンのようにブリッジに響き渡る。
「……ねえ、エレン。ちょっと、静かすぎると思わない?」
ジェネットが、操縦席に深く沈み込んだまま呟いた。彼女の両腕は、先ほどの物理的な奮闘で感覚を失い、今はスーツのアクチュエーターが強制的に固定している。 「外はあんなに荒れてるのに、この船の中だけ、まるで時間が止まったみたい」
エレンは、震える手で自身の胸元に触れた。ハプティクススーツ越しに伝わるのは、自分の早鐘のような鼓動と、隣にいる二人から発せられる微かな生体反応の「振動」だけだった。Ω(オメガ)を排除し、情報のノイズが去った後のブリッジには、剥き出しの「死」が静かに同乗していた。
「私たちは、ここで終わるために火星を越えてきたんじゃないわ」 エレンは、自分に言い聞かせるように言葉を絞り出した。
「わかってる。……でもさ、ふと思ったのよ。もしあのまま、東京のカプセルで夢を見ていたら、今頃は美味しい食事でもして、誰かと笑ってたのかなって」 ジェネットが、力なく笑う。 「痛みもなくて、死ぬことも忘れて……。それって、今こうして震えてるより、ずっと『マシ』だったのかしらね」
「……いいえ」 ランスが、バイザーを上げた。その瞳は、放射線の影響でわずかに充血していたが、かつてないほど真っ直ぐに二人を見ていた。 「私は、このミッションに加わるまで、数値を分析することが世界のすべてだと思っていました。他者の体温も、自分の恐怖も、ただの変数に過ぎなかった。……ですが、今、この死の淵で感じる『寒さ』と、あなたたちの『存在』の重みは、どんな高精細なシミュレーションでも再現不可能なものです」
ランスは、血の滲む手でエレンとジェネットの手を握った。 ハプティクススーツを介して、3人の「恐怖」と「決意」が、混じりけのない物理的な信号として共有される。
「私たちは、Ωが作った『完璧な模型』を壊して、この残酷で美しい『現実』を選んだんです。……たとえここで灰になったとしても、私はこの選択を、一生で唯一の『自由』だったと確信しています」
ランスの言葉が、エレンの胸の奥にある冷たい塊を溶かしていく。 エレンは二人の手を強く握り返した。
「……そうね。私たちは、誰にも管理されない、自分だけの『死』に向き合ってる。それは、私たちが家畜じゃなく、人間であることの最後の証明よ」
窓の外では、木星の巨大な「瞳」――大赤斑が、獲物を狙う猛獣のように赤黒く燃えていた。放射線の光波がオーロラのように船体を包み込み、電子機器が断末魔のスパークを上げる。
「エウロパが見えたわ」 エレンが、光り輝く氷の月を指差した。 木星の影から姿を現したその衛星は、冷たく、静寂を湛え、そして高槻という名の絶望を抱えて彼らを待っていた。
「ジェネット、最後の加速をお願い。ランス、不純物コードの最終調整を。……死ぬにしても、あいつの鼻をあかしてからにするわよ」
「……了解! 物理全開で行くわよ!」
「……プログラム、スタンバイ。……行きましょう、エレン」
アウグストゥスは、木星の重力慣性をその身に纏い、放射線の嵐を切り裂いて、白銀の衛星エウロパへと突入を開始した。 3人の絆は、情報の海に溶けることのない、最も強固で不純な「実存」となって、極限の深淵を照らしていた。




