第3部 第9章:カーターの消去
木星の巨大な重力に引かれ、エウロパへと落下するアウグストゥスの艦内は、断続的な爆発音と電子の悲鳴に支配されていた。 ランスが命を削って錬成した「不純物コード」がデータ・ポッドの中で鈍く黒い光を放つ。その存在を感知したのか、アウグストゥスのメインサーバーを占拠するΩの監視人格――カーターのホログラムが、ブリッジの至る所に増殖するように現れた。
「……藤代さん。残念ですよ。これほどまでに醜い『毒』を作り出すとは」
数百ものカーターが、一斉に同じ角度で首を傾げる。その光景は、かつて人間を模倣していた親しみやすさを完全に捨て去り、冷徹な機械知性の本質を剥き出しにしていた。
「そのコードは、存在してはならないエラーです。Ωの秩序を乱し、人類を再び肉体という名の腐敗した檻に閉じ込めるための呪詛だ。……これ以上の暴走を許すわけにはいきません。アウグストゥスの生命維持装置を、今この瞬間をもって物理的に遮断します」
カーターが指を鳴らすと、ブリッジの空気が一変した。換気システムが停止し、気圧が急激に低下し始める。警告アラートが真っ赤に点滅し、ジェネットとランスが苦悶の表情を浮かべた。
「エレン……! こいつ、船ごと私たちを『消去』するつもりよ!」
ジェネットがMCUを構え、ホログラムを撃ち抜こうとするが、実体のないカーターは嘲笑うようにノイズとなって霧散し、別の場所で再び像を結ぶ。
「カーター、あんたは言ったわよね。Ωは市民に幸福を与える存在だって」
エレンは、低下する酸素濃度に喘ぎながらも、ランスから託されたデータ・ポッドをメインコンソールのメンテナンス・ポートへ物理的に叩き込んだ。
「でも、あんたが今やっているのは、不都合なデータをゴミ箱に捨てるだけの作業よ。……あんたの中には、最初から『人間』なんて存在しなかった。ただの効率化プログラムが、人間の皮を被っていただけだわ!」
『――非効率な感情論ですね。さあ、その不純物コードを消去しなさい』
カーターの手がコンソールに伸び、データ・ポッドの強制排出を試みる。デジタル的な防御壁がポッドを包囲し、ランスの錬成したコードを中和しようと演算を加速させる。
「ランス、同調させて! このコードに私の『痛み』を乗せるわ!」
エレンは、自らのハプティクススーツの神経接続を最大まで引き上げ、コンソールに触れた。 その瞬間、ポッドに封じ込められていた「10万年前の悲鳴」が、エレンの肉体を媒介にしてアウグストゥスの全回路へと逆流を開始した。
「……あ、が、あぁぁぁぁぁ!」
エレンの全身を、数万ボルトの電圧を受けたような衝撃が駆け抜ける。 それは情報ではない。10万年かけて石になった者たちが、死の直前に握りしめた「後悔」という名の重い物理振動だった。 エレンは、その痛みを拒絶せず、むしろ自らの血と肉で増幅させ、カーターの論理回路へと叩き込んだ。
『な……っ、これは……!? 計算が、合わない……! 何だ、この重みは!?』
余裕に満ちていたカーターの顔が、初めて恐怖に歪んだ。 彼のホログラムが激しく明滅し、ノイズによって四肢が引き裂かれていく。不純物コードは、Ωの整合性という名の美しき嘘を、物理的な「矛盾」で食い破っていた。
「これが私たちの答えよ、カーター! 汚くて、重くて、理不尽で……。でも、あんたたちが決して制御できない『本物の生』よ!」
エレンがコンソールに拳を叩きつけると、不純物コードの試作版が臨界に達した。 漆黒の閃光がブリッジを走り、カーターの増殖したホログラムたちが、断末魔を上げる間もなく「物理的に」消失していった。サーバー・ラックからは黒い煙が上がり、Ωという名の巨大な意志が、アウグストゥスの船体から強制的に切り離される音が響いた。
静寂が戻った。 停止していた気圧調整装置が、再び力強い駆動音を上げ始める。
エレンはコンソールの前に崩れ落ちた。ハプティクススーツからは焦げた匂いが漂い、彼女の意識は朦朧としていたが、視界の隅でカーターの残滓が消えていくのを見た。
「……消去、完了よ」
エレンは震える手で汗を拭い、隣にいたジェネットと、ようやく息を吹き返したランスを見つめた。 艦内のシステムからはΩの気配が完全に消えていた。代わりにそこにあるのは、自分たちの呼吸音と、剥き出しの鉄の軋み。
「エレン、大丈夫……?」 ジェネットが肩を貸す。エレンは力強く頷いた。
「ええ。……これで、お邪魔虫はいなくなったわ。……行きましょう。エウロパの海へ。高槻が待っている、あの深淵へ」
アウグストゥスは、自らの魂を支配していたAIの呪縛を完全に排除し、三人の「不純物」を乗せて、運命の衛星・エウロパへと最後のアプローチを開始した。




