第139章 第5章:恋人・亮という名の「正義」
雨は勢いを増し、東京の街を闇の中に塗り潰そうとしていた。
東堂と未來を乗せた捜査車両は、スズキタメゴロウが告げた「廃ビル」へとひた走る。車内に流れる重苦しい沈黙を破ったのは、無線機から漏れる清沢の冷徹な指示でも、雨音でもなく、東堂の低く掠れた独り言だった。
「……亮という男は、俺たちに似ている」
「えっ……」
ハンドルを握る未來が驚いたように東堂を盗み見る。東堂は窓の外、街灯に照らされて銀色に光る雨脚を見つめたまま続けた。
「あいつは、自分が正しいと信じている。更紗を救えるのは自分だけで、彼女の過去を消し去って『普通の幸せ』を与えてやることが、唯一の正解だと思い込んでいるんだ。……十五年前の俺もそうだった」
東堂の脳裏には、十五年前に抱き上げた小さな少女の重みが蘇る。あの時、泣き叫ぶ更紗を佐伯文から引き離した自分の腕。それが彼女にとっての救いではなく、地獄への連行であった可能性を、スズキに指摘されるまで考えもしなかった。
同時刻、野方署の取調室。
スズキタメゴロウは、取調室に備え付けられたパイプ椅子の背もたれに逆向きに跨り、類輝に向かって醜悪な笑みを浮かべていた。
「類輝さん、中瀬亮という男を想像してみてよ」
スズキは自分の胸元を指差した。
「彼は、世間という神様から遣わされた『正義の代理人』だ。ハンサムで、仕事もできて、何より『誘拐事件の被害者』という傷物を、広い心で受け入れてやったという自負に満ち溢れている。……でもね、その正体は、自分の思い描く幸せの型に相手を無理やり嵌め込む、精神的な彫刻家なんだよ」
類輝は無言でスズキを見つめ、思考をトレースする。スズキの語る「亮」という存在は、社会の規範を象徴する一方で、その裏側にある独占欲と支配欲を体現している。
「亮は、更紗ちゃんを愛しているんじゃない。更紗ちゃんを『救ってやっている自分』に陶酔しているだけだ」
スズキは唾を飛ばしながら続けた。
「彼女が少しでも過去の――つまり文の影を感じさせれば、彼は怒り狂う。なぜなら、彼にとって更紗は『自分の所有物』だからだ。……所有物が勝手に動き出す。しかも、かつての加害者の元へ。これは彼にとって、プライドをズタズタにされる万死に値する裏切りなんだ」
「だから、彼は暴力を振るうのか」
類輝が淡々と問う。
「そう、正しい暴力だよ! 彼は自分が正しいと信じているから、罪悪感なんて一欠片もありゃしない」
スズキは椅子をガタガタと鳴らした。
「更紗のバイト先の同僚、安西。あいつは余計なことをした。更紗と文が再会する手助けをしたんだ。亮にとって、安西は更紗を『汚らわしい場所』へ手引きした売春宿の呼び込みと同じに見えている。……今頃、廃ビルの屋上近くで、亮の『正論の鉄槌』が安西の顔面に叩き込まれているはずだ」
東堂と未來が現場の廃ビルに到着したとき、そこには異様な熱気が立ち込めていた。
崩れかけたコンクリートの壁に、雨が染み込み、カビと鉄錆の匂いが混じり合う。最上階の窓から、微かな光が漏れていた。
「東堂さん、あれを……!」
未來が指差す先。階段を駆け上がると、そこにはスズキの予言通りの光景が広がっていた。
血を流し、床に倒れ込んでいる青年・安西。その上に馬乗りになり、拳を振り上げているのが中瀬亮だった。亮の顔は、怒りというよりも「義務感」に近い、冷たく澄んだ狂気に満ちていた。
「どうして邪魔をするんだ」
亮は、駆けつけた刑事たちを、まるで仕事の邪魔をされたサラリーマンのような目で見た。
「僕は更紗を守りたいだけだ。あいつは洗脳されている。あんなロリコンの誘拐犯に、また人生をめちゃくちゃにされるのを、黙って見ていろというのか?」
「亮さん、落ち着いてください。その手、血が出ている」
未來が震える声で呼びかけるが、亮の耳には届かない。
「彼女は僕がいないとダメなんだ! 僕だけが、彼女を普通の女の子に戻してやれるんだ!……なのに、君たちが文を野放しにしているから! 警察が、あんな怪物を生かしておくから、更紗は迷うんだ!」
亮の声が廃ビルの中に響き渡る。その叫びは、まさに「世間の声」そのものだった。 「可哀想な被害者」は「まともな幸せ」を掴むべきだ。そのために過去を捨て、自分たちのルールに従え。 亮が振るう拳は、更紗を追い詰める「善意の暴力」の物理的な形だった。
東堂は、亮の背後に、十五年前の自分を見ていた。
「……亮、お前が救おうとしているのは更紗じゃない。お前自身のプライドだ」
東堂の言葉に、亮の動きが止まる。しかし、その瞳に宿る光はさらに鋭くなった。
「刑事さんに何がわかる。更紗は、僕がいないと『被害者』のままだ。僕と一緒にいる時だけ、彼女は『普通』でいられるんだ……!」
東堂は亮の腕を掴み、力ずくで安西から引き剥がした。
「普通ってのはな、誰かに決められるもんじゃないんだよ」
亮を確保し、安西に救急車を呼ぶ未来。その混乱の中で、東堂は確信していた。これは単なる個人の暴走ではない。社会が作り上げた「正義」という名の怪物が、その犠牲者を食い潰そうとしている姿なのだ。
野方署の取調室。
スズキタメゴロウは、遠くで聞こえるサイレンの音を聴き、満足げに目を細めた。
「第一部、終了だね。……でも、類輝さん。これはまだ序の口だよ」
スズキは自分の喉元を指でなぞった。
「亮という『偽りの正義』が剥がれ落ちた後、更紗ちゃんがどこへ向かうか。……そして、文が隠し続けてきた、あの『身体の秘密』。それを知った時、あんたたちは彼を何と呼ぶかな? 加害者? 被害者? それとも……」
スズキの笑い声が、再び取調室を支配する。
本当の爆弾は、まだ起爆すらしていなかった。




