第138章 第4章:冷徹な指揮官と組織の論理
野方署の取調室に漂う空気は、スズキタメゴロウが吐き出す「毒」によって、もはや飽和状態に達していた。亮が暴力的な行動に出ているというスズキの予言めいた証言を受け、東堂と類輝が動こうとしたその時、重厚な足音が廊下に響き渡った。
扉が開き、長身の男が姿を現した。管理官・**清沢**である。
彼は組織の論理を体現する冷徹な指揮官であり、部下を「人間」ではなく「機能」としてのみ扱う男だ。その眼光は鋭く、現場の熱量とは無縁の、氷のような合理性を宿している。
「動くな。東堂、類輝。捜査の主導権は私が執る」
清沢の声は、取調室の喧騒を一瞬で凍りつかせた。
「清沢管理官、しかし今この瞬間も、中瀬亮が暴走している可能性があります」
東堂が食い下がるが、清沢は鼻で笑った。
「スズキタメゴロウ。十五年前に事件解決の美談を警察にもたらした『流浪の月事件』の当事者を、再び引っ張り出して騒ぎを起こすことが、組織にとって何の利益になる? 警察の正義は、社会の秩序を守ることであり、不確かな『真実』とやらを追い求めることではない」
スズキは椅子の上で小躍りするように体を揺らし、清沢に向かって拍手をした。
「最高だ! さすが清沢管理官、話が分かる! 組織のメンツ、階級の維持、大衆へのポーズ。あんたこそが、現代日本の『正しい大人』の完成形だ。更紗ちゃんが十五年前に踏みつけられたのは、あんたみたいな『魂のない官僚』が、書類上の平穏を優先したからなんだよ」
「黙れ、社会の底辺。お前の言葉に価値はない」
清沢はスズキをゴミを見るような目で見下したが、スズキはその視線さえもエネルギーに変えて笑い続けた。
「価値はない、か。でもさ、清沢さん。あんたが守ろうとしているその『正しい秩序』の裏で、今まさに何が起きているか教えてあげようか? 亮は今、更紗のバイト先の同僚である安西を廃ビルに連れ込み、彼女の居場所を吐かせようと拳を振るっている」
清沢の表情が、微かに、だが確実に歪んだ。
「……安西だと?」
「そう、安西。更紗ちゃんにとって数少ない理解者だ。でも亮にとっては、更紗を『汚らわしい誘拐犯』の元へ手引きした裏切り者に見えている。亮は今、自分が正義の執行者だと思い込んでいる。……あんたがここでメンツを気にしている間に、安西は死ぬかもしれないし、亮は正真正銘の殺人犯になる。そうなれば、十五年前の事件を『完璧な解決』として処理した警察の無能が、再び白日の下に晒されることになるんだよ?」
清沢は舌打ちをし、類輝を睨みつけた。
「類輝。お前はこの男の知性を高く評価しているようだが、私に言わせれば、これはただの心理誘導だ。だが……放置して不祥事になるのは容認できん。東堂、お前は未來を連れて現場へ向かえ。ただし、目立つな。あくまで『個人の暴走』として処理しろ。類輝はここに残り、この男から残りの『爆弾』の場所をすべて吐かせろ」
清沢の指示は徹底して「組織の防衛」を最優先したものだった。彼にとって、更紗や文の魂の救済など、計算式に入っていない余剰変数に過ぎない。
東堂は未來を連れて取調室を飛び出した。残された類輝は、スズキの正面に座り直し、静かに口を開いた。
「清沢管理官の言う通りだ。君は我々をコントロールしようとしている。だがスズキ、君には一つ誤算がある。私は清沢さんほど組織の論理に忠実ではないし、東堂さんほど情に脆くもない。私はただ、君という現象を『観察』し、その裏にある構造を解明したいだけだ」
「おやおや、やっぱり類輝さんは怖いなあ。一番の変態だ」
スズキは嬉しそうに身を乗り出した。
「じゃあ、類輝さんにだけ特別に、もう一つの『事実』を教えてあげる。……佐伯文。彼はロリコンじゃない。彼はね、身体的に『欠陥』があるんだ。大人になれない身体、第二次性徴が来ない特異体質。彼は、自分が人間として不完全だという呪いを抱えて生きてきた」
類輝の眉が動いた。
「……それが、更紗を部屋に入れた理由だと?」
「そう。彼は性的な欲求で彼女を求めたんじゃない。鏡を見たんだよ。居場所を失い、誰にも理解されない孤独を瞳に宿した少女の中に、自分と同じ『異物』としての共鳴を感じた。……類輝さん、あんたなら分かるだろ? 社会というシステムから弾き出された者同士が、暗闇の中でそっと手をつなぐ。それがどれほど純粋で、そしてどれほど世間にとって『許しがたい不潔』に見えるかを」
類輝は、自分の内側にある「空虚」が、スズキの言葉に微かに共鳴するのを感じた。彼自身もまた、異常なまでの観察眼と欠落した感情ゆえに、組織の中で「異星人」として生きてきた男だからだ。
「更紗と文。二人の関係は、恋人でも、友人でも、家族でもない。既存の言葉では定義できないから、世間はそれを『犯罪』という便利なゴミ箱に捨てた。……今夜、彼らが選ぶ道は、そのゴミ箱からの脱出だ。たとえそれが、一生『流浪』し続ける地獄への片道切符だとしてもね」
スズキは取調室の防犯カメラを見上げ、その向こう側にいるであろう清沢に向けて、皮肉な笑みを浮かべた。
「さあ、清沢管理官。あんたの正義で、この『名付けようのない真実』を裁いてみせてよ。……おっと、東堂さんたちが廃ビルに着いた頃かな? 亮がどんな顔をして安西を殴っているか、見に行かなくていいのかい?」
一方、雨の中を走るパトカーの中で、東堂は激しい焦燥に駆られていた。十五年前、自分は確かに更紗を「救った」はずだった。だが、スズキの言葉が本当なら、自分は彼女から「唯一の呼吸できる場所」を奪い、窒息死寸前の地獄へ突き落とした共犯者ということになる。
「……倖田、覚悟しておけ」
東堂はハンドルを握りしめ、隣の未來に告げた。
「これから俺たちが見るのは、悪意による犯罪じゃない。正義の顔をした『善意の暴力』が、人を壊していく現場だ」
未来の答えはなかった。ただ、ワイパーが雨を払う音だけが、処刑を待つメトロノームのように、暗い車内に響いていた。




