第140章 第6章:文の秘密、身体の欠落
野方署の取調室に、冷たい雨の匂いが染み込んでくる。中瀬亮が安西を襲撃したという事態を受け、東堂と未來が現場へ急行した後、室内に残されたのは「論理の怪物」類輝と、脂ぎった笑みを絶やさないスズキタメゴロウの二人だけだった。
「類輝さん、あんたは『完璧』なものが好きだろう?」
スズキは机に肘をつき、組んだ指の隙間から類輝を覗き込んだ。その眼光には、相手の理性をじりじりと削り取るような、湿った悪意が宿っている。
「完璧など、この世には存在しない。あるのは観測された事実の積み重ねだけだ」
類輝は表情一つ変えず、淡々と答える。
「冷たいなあ。でもね、世の中には『完璧に欠落している』ことでしか成立しない関係ってのもあるんだよ」
スズキは立ち上がり、取調室の狭い空間を、まるで檻の中の獣のように徘徊し始めた。
「佐伯文。十五年前にロリコンの誘拐犯として人生を終わらされた男。……類輝さん、あんたは彼の『身体』について、どこまで知っている? 警察のデータベースにある、無機質な身体検査の記録じゃなくて、彼が一生、誰にも触れさせたくなかった真実についてだ」
類輝の手が、タブレット端末の上で止まる。
「……彼には二次性徴が訪れていない。特異体質、あるいはホルモンの異常だ」
「正解! さすが類輝さん、仕事が早い」
スズキはパチパチと、皮肉な拍手を送った。
「声は高く、体毛は薄く、大人の男性としての身体機能を持たない。彼は自分が『人間としての欠陥品』だという呪いを、十代の頃からずっと抱えて生きてきたんだ。……そんな男が、十歳の少女を部屋に入れた。世間はそれを性的欲求による誘拐だと断じた。警察も、検察も、マスコミもね。でも、現実はその真逆だったんだよ」
スズキは類輝の目の前で止まり、机を両手で強く叩いた。
「彼は、更紗ちゃんに欲情したんじゃない。彼は、自分と同じように『居場所がなく、誰にも理解されない孤独』を瞳に宿した少女に、鏡のような共鳴を感じただけなんだ。性的不能者と、虐待被害者の少女。二人があの狭いアパートで過ごした二ヶ月間は、性愛なんて卑俗なものとは無縁の、ただ魂を寄せ合うだけの純粋な時間だったんだよ」
「その『純粋さ』が、社会の枠組みでは犯罪と呼ばれる。法は主観的な救済ではなく、客観的な行為を裁くものだ」
類輝の声には、微かな揺らぎもなかった。
「その『客観的』って言葉が、どれほど文を殺したか分かってるのかい?」
スズキの声が、不意に低く、重くなる。
「彼は自分が『男』ですらないことを誰にも言えなかった。もしそれを法廷で明かせば、無罪にはならないまでも、情状酌量の余地はあったかもしれない。でも、彼は沈黙を選んだ。なぜか? 自分の最も深い欠落を晒してまで生き永らえるより、ロリコンの誘拐犯として軽蔑される方が、彼にとっては耐えられる苦痛だったからだ。……彼は、自分の魂の純潔を守るために、喜んで泥を被ったんだよ」
類輝は、スズキの言葉を脳内で咀嚼する。文の抱える身体的秘密は、この物語における最大の「逆説」だ。彼は世間から最も忌むべきレッテルを貼られたが、その実態は、誰よりも性的な欲望から遠い場所にいたのである。
「更紗ちゃんはね、その秘密を知っているんだ」
スズキは再び、椅子に深く腰掛けた。
「彼女にとって、文は自分を性的な対象として消費しなかった唯一の『男』だった。叔父に汚され、亮に『普通』を強要される彼女にとって、文の欠落こそが、世界で唯一の安全地帯だったんだよ。……だから、彼女は今、自分の生活をすべて捨てて、文の元へ向かっている。それは依存じゃない。魂の合致なんだ」
その時、類輝の無線機が鳴った。現場に到着した東堂からの報告だ。
『類輝、中瀬亮を確保した。安西の命に別状はない。……だが、更紗がいない。彼女は亮の隙を突いて、すでに姿を消している』
「逃げたか」
類輝が呟く。
「逃げたんじゃない、向かったんだよ」
スズキが満足げに付け加えた。
「文の営むカフェへね。……でも、類輝さん。ここからが本当の『爆弾』だよ。文は、更紗ちゃんを拒絶しようとしている。自分が彼女の人生をこれ以上汚してはいけないと、自己犠牲的な愛で彼女を突き放そうとしているんだ。……もし、再会した二人が絶望の果てに何を選ぶか。心中か、それとも――」
スズキの言葉を遮るように、取調室の扉が激しく開いた。そこには、顔色を失った清沢が立っていた。
「類輝、全署に緊急配備をかけろ。佐伯文を、家内更紗に対する再犯の疑いで指名手配する」
「……管理官、まだ再犯の事実は確認されていません」
類輝が立ち上がる。
「事実など後で作ればいい! 十五年前の誘拐犯が、再び被害女性を連れ去ったというシナリオこそが、世間が最も納得する解答だ。これ以上の混乱は許さん!」
清沢の叫びは、まさに「組織の論理」そのものだった。
スズキは、その光景を眺めながら、狂おしいほどの喜びを爆発させた。
「最高だ! 正義の名の下に、また一組の孤独な魂が処刑される! ねえ、類輝さん。あんたはこの『完璧な不条理』を、ただ観察しているだけでいいのかい?」
類輝は清沢の背中を見つめ、そしてスズキを見つめた。彼の冷徹な計算回路の中で、初めて「未知の変数」が激しく点滅し始めていた。




