第135章 第1章「起爆する沈黙」
東京、野方警察署。午前二時の取調室は、安っぽい蛍光灯のノイズと、湿った絶望が充満していた。
鉄格子の嵌まった小窓の外では、季節外れの重たい雨がアスファルトを叩いている。その雨音を遮るように、鼻を突く悪臭が室内に漂っていた。安物の揚げ物の油、何日も洗っていない体臭、そして――隠しきれない底意地の悪い悪意が混ざり合ったような、粘り気のある臭いだ。
「……名前を、もう一度言え。いい加減にしろ」
パイプ椅子に深く腰掛けた刑事、倖田沙良は、目の前の男を射抜くように睨みつけた。彼女の瞳には、職務への使命感と、目の前の存在に対する生理的な嫌悪が同居している。
男は、脂ぎった顔を歪めてへらへらと笑った。年齢は五十手前だろうか。中年太りの腹が、サイズ違いのTシャツからはみ出している。男は指先で鼻の頭をいじり、その指をこれ見よがしにズボンで拭った。
「スズキ、タメゴロウ。鈴木為五郎。ねえ、お巡りさん。そんなに怖い顔しないでよ。俺はただ、喉が渇いたから自販機をちょっと小突いただけ。壊すつもりなんてなかったんだ、本当だよ? 喉が渇くってのは、生物学的な危機なんだ。それを守ろうとした俺のどこが悪いのかなあ」
スズキはそう言って、黄色く変色した歯を見せた。
沙良は机を叩く。
「『小突いた』じゃない。蹴り倒して、中身の現金を盗もうとしたんでしょ。防犯カメラにバッチリ映ってる。器物損壊と窃盗未遂の現行犯。言い逃れはできないわ」
「ああ、冷たいなあ。若くて綺麗な女の人にそんなに怒鳴られると、俺みたいなゴミクズは心臓が止まっちゃうよ。でもさあ、お巡りさん。あんた、さっきから俺の服とか、この臭いとか、見てるよね? 『うわあ、汚い、キモい、早く終わらせたい』って顔に出てるよ。隠せてない。あんたの正義感なんて、そんな程度の選別の上に成り立ってるんだ」
スズキは芝居がかった仕草で胸を押さえたが、その目は笑っていなかった。濁った瞳の奥で、何かが冷酷に脈打っている。沙良は背筋に冷たいものが走るのを感じた。この男は、単なる「無敵の人」ではない。何かもっと、手に負えない「何か」だ。
「……反省してるなら、素直に調書にサインして」
「いいよ。でもその前に、クイズを出してもいいかな? 俺、暇つぶしが大好きなんだ。特に、自分たちが正しいと信じて疑わない連中の顔が、絶望に歪む瞬間を見るのがね」
スズキが身を乗り出した。悪臭が一段と強くなる。
「クイズ……?」
「そう。俺、こう見えて『視える』んだ。この雨、嫌な雨だよね。十五年前も、こんな雨が降ってた。……お巡りさん、あんたも知ってるだろう? この近くで起きた、あの有名な事件。ほら、大学生が小さな女の子を連れ去った、あの『誘拐事件』だよ。世間様が大好物の、可哀想な被害者と、変質者の加害者の物語だ」
沙良の手が止まった。十五年前の誘拐事件。この地域に配属された警察官なら、誰もが一度は耳にする忌まわしい記憶だ。
「……それがどうしたの。今のあなたの罪とは関係ない」
「関係あるんだよ、大ありなんだよ。今夜ね、その『被害者』と『加害者』が再会したんだ。この雨の中で。運命の再会、なんてロマンチックなもんじゃない。もっとドロドロして、救いのない再会だよ。……お巡りさん、あんたが俺を捕まえたせいで、その爆弾が爆発しちゃうかもしれないんだよ?」
「何を言ってるの。支離滅裂よ」
沙良は一蹴しようとしたが、心臓の鼓動が早まるのを止められなかった。スズキの言葉には、狂気の中に奇妙な説得力が宿っていた。
「支離滅裂、か。いい言葉だね。でも、世の中なんて最初から支離滅裂だよ。たとえばさ……」
スズキは指を一本立てた。爪の間には黒い汚れが詰まっている。
「その女の子、家内更紗ちゃん。彼女は今、どこで、誰と、どんな顔をして笑っていると思う? それとも、泣いていると思う? もし彼女が今、あの『犯人』と一緒にいるとしたら……それは事件の再来かな? それとも、十五年越しの救済かな? 世間はそれを『洗脳』とか『共依存』とか呼ぶんだろうけど、あんたたちの薄っぺらな正義で、それが測れるのかい?」
「勝手な妄想を喋らないで!」
沙良が声を荒らげた瞬間、取調室の重い扉が金属音を立てて開いた。
入ってきたのは、仕立ての良いスーツを完璧に着こなした男だ。冷徹な美貌を湛えたその男――類輝は、手元のタブレットに目を落としたまま、静かに口を開いた。
「倖田巡査、交代だ。この男は、君の手には余る」
「類輝さん……でも、こいつはただの浮浪者で……」
「ただの浮浪者は、『家内更紗』という個人名をこのタイミングで口にしたりはしない。この男は自販機を壊したんじゃない。我々をここに呼ぶために、自ら捕まったんだ」
類輝はスズキの正面に座った。二人の間には、天国と地獄ほどの隔たりがあるように見えたが、スズキは怯むどころか、嬉しそうに目を細めた。
「おや、本打ち(エリート)のお出ましだ。いい匂いがするね。高い石鹸の匂いだ。あんたみたいな綺麗な顔の人が、俺みたいなドブネズミをどう料理してくれるのかな」
「スズキタメゴロウ。君が何を企んでいるかは知らないが、クイズの続きを聞こう。君の言う『爆弾』とは何のことだ。物理的な火薬か、それとも情報の隠喩か」
類輝の問いに、スズキはケタケタと、喉の奥を鳴らすような笑い声を上げた。
「さすが頭のいい人は話が早い! 爆弾っていうのはね、『真実』のことだよ。みんなが信じている『正義』を、一瞬で木っ端微塵にするような、残酷な真実。……例えばさ、あの誘拐犯・佐伯文。彼は本当に、あんたたちが作り上げた『ロリコンの変質者』だったと思うかい?」
類輝は表情を一つ変えずに答えた。
「判決ではそうなっている。事実はそれだけだ」
「事実は嘘をつくんだよ! 事実は声の大きい奴らが作る物語だ。更紗ちゃんが当時、何を望んでいたか、誰も聞こうとしなかった。彼女が叔父に何をされていたか、知っていても見ないふりをした。警察も、児相も、近所の善人もね。みんな、彼女を『被害者』という安全な箱に閉じ込めて、文を『加害者』というゴミ捨て場に放り込んで、それで満足したんだ」
スズキは興奮して唾を飛ばした。
「これから三時間以内に、最初の爆発が起きる。都内のどこかで、誰かの『信じている世界』が壊れる。場所を知りたければ、俺を楽しませてよ。もっと、もっと汚い言葉で、俺を罵って、俺を人間として扱わないで。そうすれば、ヒントをあげてもいい。俺はね、あんたたちが『善意』で誰かを踏みにじる瞬間を見るのが、一番の好物なんだ」
スズキは机に顔を擦り付けるようにして、類輝を覗き込んだ。
「十五年前、更紗ちゃんは言ったんだ。『帰りたくない』って。それを無理やり引き剥がして、地獄――あの叔父の家――に送り返したのは、君たちの先輩だ。正義の名の下に、子供を虐待の現場に突き戻したんだよ。最高にイカれてるよね。ねえ、正義って何? 善意って何? 今夜、更紗ちゃんがまた『帰りたくない』って言ったら、君たちはまた、彼女の喉元にナイフを突きつけて、社会という檻に戻すのかい?」
雨音はさらに激しさを増し、窓を叩く音は銃声のように響く。
野方署の取調室で始まったのは、単なる取り調べではなかった。それは、十五年前に封印されたはずの、名付けようのない感情、定義できない愛、そして社会が許容できない関係性を掘り起こし、偽善に満ちた倫理を焼き尽くす、スズキタメゴロウによる「心の爆破テロ」の序曲だった。
「……さあ、ゲームを始めよう。最初の爆弾は、もう導火線に火がついているよ。更紗ちゃんが今、どこにいるか。彼女を『救う』のは誰か。警察か、文か、それとも――死か」
スズキの狂気に満ちた哄笑が、取調室の冷たいコンクリートに反響した。沙良は、自分の立っている地面がゆっくりと崩れ落ちていくような錯覚に陥った。
真実という名の爆弾。そのカウントダウンは、もう止まらない。




