第134章 10章
「……さあ、いよいよ終わりの時間だ。お嬢ちゃん、その震える指で最後の一行まで書き留めな。等々力警部、あんたのその苦虫を噛み潰したような顔も、これで見納めだ。寂しいじゃないか」
スズキタゴサクは、取調室の椅子からゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれた『汝、星のごとく』を、まるで聖骸布でも畳むかのような手つきで丁寧に閉じた。彼の瞳には、これまでの饒舌な狂気とは異なる、冷徹で凪いだ光が宿っている。
「第10章。タイトルは『汝、星のごとく生きよ――取調室の終焉、あるいは新たな爆発の始まり』。等々力さん、あんた、この物語の最後、暁海が独りで瀬戸内の海を見つめるシーンをどう読んだ? 櫂は死に、北原先生との『契約』としての家族は続き、彼女は自分の足で立っている。ハッピーエンドかい? それとも悲劇かい?」
スズキは取調室の壁に手をつき、這い寄るような足取りで歩き始めた。
「俺に言わせればね、あれは『究極のテロリズム』の完成だよ。暁海は、この日本社会というシステムを、内側から完全に無効化してしまったんだ。彼女はもう、世間の目も、親の呪縛も、男らしさという幻想も、何一つ恐れていない。自分の中に死者(櫂)を飼い、自分を理解しない夫(北原)と共謀し、ただ『自分の人生』という星だけを見つめて生きている。これほどまでに、管理社会にとって『不都合な個人』が他にあるかい?」
スズキは不意に足を止め、監視カメラに向かって、まるで画面越しの誰かに語りかけるように声を張り上げた。
「いいか、上層部の連中! あんたたちが一番恐れているのは、俺みたいな爆弾魔じゃない。暁海のように、『あんたたちのルールなんて、俺の人生には一ミリも関係ない』と気づいてしまった人間なんだよ。彼女は、社会が用意した『幸せのテンプレート』を全部ゴミ箱に捨てた。不倫と言われようが、冷酷と言われようが、彼女は自分の魂が納得する形だけで生きることを選んだ。……これこそが、凪良ゆうが放った最大の『爆弾』なんだ。この本を読んだ読者の心の中に、既存の価値観を焼き払う種火を植え付けたんだからな」
「……スズキ、君の話はもういい。爆弾の場所を言え。それが最後だ」
等々力の声は枯れていた。だが、スズキはそれを無視し、今度は倖田沙良の前に立った。彼女の瞳には、恐怖を通り越した、ある種の「覚悟」のようなものが芽生え始めている。
「お嬢ちゃん、あんた、この物語から何を学んだ? 正義を守ることかい? 違うだろう。あんたが本当に感じたのは、『私も、私の星を見つけたい』という、ひりつくような渇望じゃないのか? 警察官という組織の歯車として、誰かが決めた正義を振りかざす毎日に、あんたの魂は満足しているかい? 暁海はね、あんたにこう問いかけているんだよ。『汝、星のごとく生きているか?』ってね」
スズキは下卑た笑いを消し、真剣な、しかしどこか虚ろな表情で続けた。
「今の日本社会を見てごらん。空には厚い雲が垂れ込めている。自己責任、格差、孤立、同調圧力……。誰もが窒息しそうな暗闇の中で、必死に『まとも』の仮面を被って歩いている。でもね、暁海と櫂が教えてくれたのは、その暗闇が深ければ深いほど、自分だけの星を見つけた時の輝きは強烈だっていうことだ。……俺が仕掛けた爆弾も、本質は同じなんだよ。この閉塞した社会という雲を、一瞬でもいいから吹き飛ばして、みんなに『本当の空』を見せてやりたかった。ただ、俺は火薬を選び、彼女は刺繍の針を選んだ。表現の方法が違っただけだ」
スズキは再び椅子に座り、机の上の本を沙良の方へ押しやった。
「第10章の結末……それは、取調室の外に出るあんたたちの物語だ。等々力警部、あんたは明日もまた、システムを守るために自分を削るだろう。でも、あんたの心の中には、もう北原先生のあの冷徹な視線がこびりついているはずだ。『あんたが守っているものは、本当に守る価値があるのか?』と。……そしてお嬢ちゃん、あんたはいつか、その制服を脱ぎ捨てる日が来るかもしれない。自分の星を見失わないためにね。……爆弾の場所? ああ、言ったじゃないか。もう、あんたたちの『心』の中に仕掛けたってね」
スズキは満足げに背もたれに寄りかかり、天井を仰いだ。
「日本の社会問題……それは、誰もが『星』であることを忘れ、ただの『点』になろうとしていることだ。自分を殺し、平均値の中に隠れ、誰かを叩くことで安心を得る。そんな死んだような社会に、暁海という生きた魂が投げ込まれた。この波紋は、簡単には消えないよ。……さあ、夜明けだ。取調室の窓から、空が見えるかい? 星はもう見えないかもしれない。でも、そこにあることは知っている。……それが『信じる』ってことだろう?」
スズキタゴサクは、最後の一杯となった冷めたコーヒーを飲み干し、静かに目を閉じた。彼の唇には、勝利とも敗北ともつかない、不思議なほど穏やかな微笑が浮かんでいた。
「……終わったよ。全部、語り尽くした。さあ、俺を連れて行け。どこへでも。俺の言葉という名の爆弾が、あんたたちの人生をどう変えていくか……獄中からゆっくりと、観測させてもらうよ」
取調室に、重苦しい、しかしどこか清々しい沈黙が訪れた。等々力は無言で立ち上がり、沙良は震える手で『汝、星のごとく』をバッグに収めた。ドアが開く。外の廊下から差し込む光は、暴力的なほどに白かった。
二人が部屋を出る間際、背後からスズキの小さな、しかし確かな声が聞こえた。
「……汝、星のごとく。……いい言葉だ。俺も、あっち側に行きたかったよ。……本当にな」
その一言だけは、これまでのどんな弁舌よりも人間らしく、そして絶望的に響いた。現代日本という名の巨大なムラ社会の中で、誰からも見つけられなかった「星」の、それが最後の瞬きだったのかもしれない。
等々力と沙良は、振り返ることなく、光の中へと歩き出した。彼らの胸の中には、消えない火種が、確かに、静かに、熱を帯び始めていた。




