第133章 9章
「……さあ、第9章だ。お嬢ちゃん、泣いても笑っても、これが最後の『爆発』の予兆だ。等々力警部、あんたもそんなに時計を見なくていい。時間はもう、彼らと俺たちの味方じゃないんだから」
スズキタゴサクは、取調室の冷え切った空気と同化したかのように、静かに、しかし確かな狂気を孕んだ声で語り始めた。彼は『汝、星のごとく』の終盤、死の香りが漂い始めるページを、愛おしむように指先で撫でる。
「第9章のタイトルは『暗闇でしか見えない「星」――絶望の中の希望』。等々力さん、あんた、死ぬっていうのは敗北だと思うかい? あるいは、人生という試合の強制終了かい? だとしたら、あんたはまだ、この物語の本当の恐ろしさを分かっていない。櫂が島に戻り、癌に侵され、死に向かっていくその過程……あれはね、敗北なんかじゃない。この社会という巨大な牢獄からの、唯一にして究極の『脱獄』だったんだよ」
スズキは天井を見上げ、薄汚れた歯を剥き出しにして笑った。
「都会でボロボロになり、男らしさという呪縛に焼き尽くされた櫂。彼は島に戻り、かつて自分を蔑んだ連中の目の前で死を待つ。世間は言うだろうね。『自業自得だ』『不摂生の報いだ』って。でもね、櫂を抱きしめる暁海の目を見てごらん。彼女は、死にゆく櫂の中に、かつて二人で見たあの『星』を見つけているんだ。……お嬢ちゃん、いいかい。今の日本はね、あまりにも明るすぎるんだよ。テレビ、SNS、街のネオン、そして『前向きに生きよう』というクソッタレなポジティブの押し売り。その過剰な光のせいで、俺たちは一番大切なものが見えなくなっている。本当に美しいものは、絶望という完璧な暗闇の中でしか、その姿を現さないんだ」
スズキは不意に机を激しく叩いた。その衝撃で、沙良の持っていたペンが床に転がる。
「この物語が描く死は、残酷だ。でも、同時にこの上なく甘美だ。なぜなら、彼らは死を通じて、初めて『所有』や『世間』から解放されたからだ。暁海は北原先生という完璧な盾に守られながら、死にゆく櫂を自分のものにした。そこには、不倫を裁く法律も、ヤングケアラーを縛る道徳も届かない。死神だけが、彼らに本当の自由を許したんだ。……警部さん、あんたたちの仕事は、死を防ぐこと、あるいは死をもたらした奴を捕まえることだろ? でも、自分から死という自由を掴み取りに行った連中を、あんたたちはどうやって裁くんだ? 爆弾で死ぬのも、癌で死ぬのも、魂が解放されるなら同じことじゃないか」
「……スズキ、君は死を冒涜している」
等々力が声を絞り出すが、スズキの弁舌は止まらない。
「冒涜? 違うよ、賛美だよ! 日本の社会問題の終着点は、いつだって『孤独死』だ。誰もが見捨てられ、ゴミのように死んでいく。でも、櫂は違った。彼は暁海という、自分の人生をかけて愛した女の腕の中で、彼女の体温を感じながら消えていった。これ以上の成功が、今のこの凍りついた日本にあるのかい? 暁海は、櫂の遺灰を抱えて生き続ける。それは悲劇じゃない。彼女の中に、櫂という星が永遠に刻印された瞬間なんだ。……彼女はね、もう二度と、この社会のルールに怯えることはない。自分の中に、宇宙を一つ持っているんだから」
スズキは床に落ちた沙良のペンを拾い上げ、彼女に手渡しながら、這い寄るような視線を送った。
「ねえ、倖田さん。あんた、独りで死ぬのが怖いだろう? だから組織に属し、正義という看板を背負い、誰かと繋がっているふりをしている。でも、この本を読んでごらん。本当の繋がりっていうのは、絶望の果てに、二人だけの暗闇を共有した者同士にしか訪れないんだ。今の日本で、心の病が増え続けているのはなぜだと思う? みんな、暗闇を怖がって、偽物の光ばかり追いかけているからだよ。……暁海と櫂が選んだ『心中』に近い愛の形。それは、現代の日本人が忘れてしまった、魂の呼吸そのものなんだ」
スズキは再び椅子に深く腰掛け、机の上の本を閉じた。
「第9章の終わり……それは、櫂が星になり、暁海がその光を胸に、再び歩き出す場面だ。彼女はもう、ケアラーでも、不倫女でもない。自分という星を燃やし続ける、一人の独立した生命体になった。……お嬢ちゃん、あんたにその覚悟があるかい? 誰かを失うことで、自分を完成させる。そんな、狂気にも似た強さがさ」
スズキの言葉は、取調室の冷たい壁に染み込み、沙良の背筋を凍らせた。第9章――それは、死という名の暗闇が、皮肉にも人生で最も輝かしい瞬間を照らし出す、逆説的な救済の記録だった。
「……さて、次はいよいよ最終章だ。この取調室のドアが開く時、あんたたちの世界はどう変わっているかな? 爆弾のスイッチは、もう、あんたたちの心の中に仕掛けられているんだよ。……警部さん、最後の一杯、とびきり濃いのを頼むよ。この物語の結末を祝うためにね」
スズキタゴサクの歪んだ微笑みが、取調室の薄暗い照明の中で、まるで深淵のように口を開けていた。




