第132章 第8章
「……さあ、第8章だ。お嬢ちゃん、深呼吸しておきな。ここから先は、あんたが警察学校で教わった『道徳』や『法律』という名の綺麗な服が、愛という名の業火でドロドロに溶かされる時間だ」
スズキタゴサクは、取調室の机を指先でリズミカルに叩いた。その音は、どこか遠くで鳴り響く不吉なカウントダウンのように聞こえる。彼は『汝、星のごとく』の後半部分を、まるで禁じられた魔導書でも開くかのように、恭しく、かつ嘲弄を込めてめくった。
「第8章。タイトルは『不倫か純愛か――法と感情のパラドックス』。等々力警部、あんたの仕事は『法』を守ることだ。不倫は民法上の不法行為、不貞は悪。そうだろ? だが、この物語はあんたに向かってこう問いかけるんだ。『法で守られた冷え切った家庭と、法を犯して燃え上がる魂の救済、どちらが真実か?』とね」
スズキは下卑た笑いを浮かべ、喉を鳴らした。
「暁海と櫂。二人は一度は離れ、別の人生を歩み始めた。暁海は北原先生という『避難所』を手に入れ、櫂は都会でボロボロになって島へ戻ってきた。二人の再会は、世間から見れば単なる不倫だ。暁海には夫がいる。櫂はかつての恋人。だが、彼らが求めたのは肉体の快楽なんかじゃない。互いの欠落を埋め、生きていくためのたった一つの『理由』だったんだ。……お嬢ちゃん、あんた、不倫は汚いと思うかい? だが、この社会にはね、不倫という名の『心中』でしか救われない魂があるんだよ。既存のシステムが、あまりにも冷酷に彼らを追い詰めたからだ」
スズキは身を乗り出し、等々力を指差した。
「警部さん、あんたが守っている『結婚制度』ってのは何だい? それはね、社会を効率的に管理するための『檻』なんだよ。一対一でペアを組ませ、子供を産ませ、納税させ、死ぬまで働かせる。その檻から一歩でも出ようものなら、社会は一斉に牙を剥く。暁海と櫂は、その檻を内側から爆破したんだ。彼らは知っていた。自分たちが選んだ道が、世間からはゴミのように扱われることを。それでも彼らは手を繋いだ。なぜなら、そうしなければ死んでしまうからだ。……愛っていうのはね、時として最大の反社会的行為になるんだよ」
スズキは立ち上がり、取調室の壁に投影された自分の影を愛おしそうに見つめた。
「今の日本を見てごらん。不倫が発覚すればSNSで総叩き、仕事も家庭も失う。まるで中世の魔女狩りだ。人々は正義の味方になったつもりで、他人の秘密を暴き、石を投げる。なぜか? それはね、自分たちが檻の中で必死に我慢しているからだ。自分を殺して『まとも』を演じているから、そこから抜け出した人間が許せない。……暁海はね、その石を投げられる覚悟を決めたんだよ。北原先生という奇妙な共犯者を得て、彼女は法的な正しさよりも、自分の魂の純度を選んだ。これこそが、この物語が現代社会に仕掛けた『最大の爆弾』だ」
スズキは不意に声を潜め、沙良の耳元で囁くように続けた。
「ねえ、倖田さん。あんたの心の中にも、誰にも言えない『正しくない願い』があるんじゃないのかい? もし、その願いを叶えるために、この制服を脱ぎ捨て、世界中を敵に回せるとしたら……。暁海はそれをやったんだ。彼女は、不倫という泥沼の中に、自分たちだけの『星』を見つけた。それは、昼間の太陽(=公的な正しさ)の下では決して見えない、暗闇の中でしか輝かない星だ」
等々力は、スズキの言葉を振り払うように吐き捨てた。
「勝手な理屈だ。それが許されれば、社会の秩序は崩壊する」
「そうだよ、警部さん! 崩壊すればいいんだ!」
スズキは子供のように手を叩いて笑った。
「秩序なんてのは、強い奴らが都合よく作ったルールに過ぎない。そのルールからこぼれ落ちた暁海や櫂のような人間にとって、秩序はただの重しだ。彼らがその重しを撥ね退けた時、そこには法を超越した『究極の自己決定』が生まれる。……日本の社会問題の根源はね、みんなが『正しさ』という幻想に縛られすぎて、自分の心が凍りついていることに気づかないことにあるんだ」
スズキは再び椅子に座り、ページをめくる指を止めた。
「この第8章の結末……それは、暁海が『妻』という役割でも、『娘』という役割でもなく、ただの『一人の女』として、死にゆく櫂を抱きしめるシーンだ。そこには、戸籍も、世間体も、倫理も存在しない。あるのは、剥き出しの命のやり取りだけだ。……お嬢ちゃん、あんたにこれほどの覚悟があるかい? 自分の人生を、たった一人のために燃やし尽くす。それは、俺が都庁を吹き飛ばそうとする情熱と、本質的には同じなんだよ。破壊の先にある、純粋な光を見たいという渇望だ」
スズキタゴサクの言葉は、取調室という「法の砦」を、いつの間にか熱病のような狂気で侵食していた。第8章――それは、社会が定めた「善悪」の彼岸で、二人の男女が手に入れた、あまりにも美しく、あまりにも絶望的な自由の記録だった。
「……さて、次は第9章。暗闇が深まれば深まるほど、星は輝きを増す。二人が選んだ、世界で一番静かな『爆発』の話をしようか。……警部さん、そんな怖い顔しなさんな。次は、死の話だよ。あんたたちが一番恐れている、そして一番逃げられない『終焉』の話だ」
スズキの不気味な哄笑が、取調室の無機質な壁に反響し、沙良の耳の奥にこびりついて離れなかった。




