第130章 第6章
「……さあ、第6章だ。お嬢ちゃん、あんたが今握っているそのペン。それは単なる文房具かい? それとも、自分の人生を切り拓くためのメスかい?」
スズキタゴサクは、取調室の冷たい空気を楽しむように、細く汚れた指で空中に円を描いた。彼の視線は、机の上の『汝、星のごとく』の特定のページに釘付けになっている。
「第6章のタイトルは『経済的自立という武器――刺繍の針が切り裂く運命』。等々力警部、あんたの奥さんは、あんたの給料袋を見て何を思っているかな? 『感謝』? 違うね。あれは『命綱』だよ。そして命綱を握られている人間は、決して自由にはなれない。この章で暁海が成し遂げたのは、愛の成就なんかじゃない。もっと冷徹で、もっと根源的な『生存戦略』の確立なんだ」
スズキは身を乗り出し、机をコンコンと叩いた。
「暁海は刺繍を始めた。最初は趣味、次は内職、そしてやがてそれは、彼女を島から、親から、そして櫂という名の呪縛から解き放つ『換金可能な技術』になった。お嬢ちゃん、今の日本で一番頼りになるのは、正義感でも愛でもない。『自分の手で稼げる金』だ。暁海が針を一本刺すごとに、彼女の足元を縛っていた鎖が一つずつ弾け飛んでいく。その音が聞こえるかい?」
「……彼女はただ、懸命に生きていただけだ」
沙良が反論するが、スズキはそれを鼻で笑った。
「懸命に? 違うよ、彼女は『武装』したんだ。今の日本を見てごらん。女性の賃金格差、非正規雇用の不安定さ……社会は依然として、女が誰かに養われることを前提に設計されている。暁海はそのシステムに中指を立てたんだ。彼女が北原先生から学んだのは、知識じゃない。『システムの中で、システムに食われないための立ち回り方』だ。彼女は自分のブランドを立ち上げ、自力で飯を食う力を得た。その瞬間、彼女は初めて『誰かを愛するかどうか』を、自分の意思で選べる立場になったんだ。守られるだけの立場から、選ぶ立場への転換。これがどれほど残酷な力を持つか、警部さん、あんたには想像もつかないだろう?」
スズキは立ち上がり、取調室の壁を這うように歩きながら続けた。
「一方で、櫂はどうだ? 彼は東京という巨大な市場に自分の才能を丸ごと差し出し、システムに食い尽くされてボロボロになった。暁海は小さな針を武器に、自分の手の届く範囲で城を築いた。この差は大きい。現代の日本で生き残るのは、大きく羽ばたこうとする鳥じゃない。地面の下に深く、誰にも見つからない根を張る連中だ。暁海の刺繍は、その根っこなんだよ。彼女は、経済的な自立という名の『核シェルター』を手に入れたんだ」
スズキは不意に足を止め、沙良のメモ帳を覗き込んだ。
「ねえ、倖田さん。あんたが警察官という安定した公務員の椅子に座っているのは、正義のためかい? それとも、誰にも支配されないための『軍資金』を得るためかい? 暁海が手にした金は、単なる紙切れじゃない。それは、嫌な奴に頭を下げず、嫌な場所に留まらず、自分の魂を安売りしないための『拒否権』だ。この国で一番不足しているのは、この拒否権なんだよ。みんな、生活のために、世間の目のために、爆弾みたいなストレスを飲み込んで笑っている。暁海はそれを吐き出したんだ。刺繍という美しい形に変えてね」
スズキは再び椅子に座り、ニタリと笑った。
「第6章の終わり……それは、暁海が櫂に対して、対等、あるいはそれ以上の強さを持って向き合う準備が整った瞬間だ。もう彼女は、櫂に救ってもらう必要はない。逆に、壊れゆく櫂を自分の懐に引き入れるだけの余裕さえ持っている。……お嬢ちゃん、これが『自立』の正体だ。優しさじゃない、力なんだ。日本社会が最も恐れ、そして最も隠したがる『個人の力』だよ」
スズキは満足げに息を吐き、机の上の本を愛おしそうになぞった。
「さて、次は第7章。いよいよ、あの閉塞した島の『正体』を暴こうか。日本という国が抱える、ムラ社会のどす黒い胃袋の話だ。……警部さん、コーヒー。次はブラックじゃなくて、砂糖をたっぷり入れてよ。この先の展開は、苦すぎてやってられないからさ」
取調室の冷たい蛍光灯の下で、スズキタゴサクの影が巨大な蜘蛛のように壁に張り付いていた。第6章――それは、か弱き者が「生存」という名の武器を手に取る、静かな、しかし決定的な反逆の記録だった。




