第129章 第5章
「……さあ、いよいよ半分だ。第5章。ここからは、この物語の真の『劇物』について語るとしようか。お嬢ちゃん、あんた、さっきから北原先生って男の名前が出るたびに、少しだけ顔を強張らせているね。正解だよ。その直感は正しい」
スズキタゴサクは、取調室の椅子をガタつかせ、身を乗り出した。彼の目は、獲物の内臓をかき回そうとする外科医のような、冷徹な光を湛えている。
「第5章のタイトルは『北原央海という異物――合理性と慈愛の狂気』だ。等々力警部、あんた、この男をどう思う? 暁海がどん底にいる時に現れ、金を与え、家を与え、戸籍上の夫という『避難所』を提供した男だ。世間は彼を聖人と呼ぶかもしれない。だが、俺に言わせれば、彼は俺たちと同じ……いや、俺以上に壊れた『怪物』だよ」
スズキは机の上に置かれた『汝、星のごとく』の表紙を、爪でカリカリと引っ掻いた。
「北原先生。彼は教師だ。でも、その内側には情熱なんて欠片もない。あるのは、冷え切った合理性と、世間に対する底なしの諦念だ。彼はね、暁海にこう言ったんだ。『互いに利用し合いましょう』と。愛なんていう、いつか腐るナマモノの言葉を使わずに、契約という鉄の言葉で彼女を救った。これ、今の日本社会に対する最大の皮肉だと思わないかい?」
「……利用し合うことが、救いだと言うのか」
沙良が震える声で尋ねる。スズキは下卑た笑いを漏らした。
「そうだよ、倖田さん。いいかい、今の日本で『愛』なんて言葉を信じて、家族という地獄に縛り付けられている人間がどれだけいる? 暁海は親という呪縛に、櫂は男らしさという呪縛に殺されかけていた。そんな彼女に、北原は『家族という制度』を、ただの『道具』として使う方法を教えたんだ。婚姻届を、愛の証じゃなく、防弾チョッキとして着る。世間の目という銃弾から身を守るためにね。……彼は、社会のルールを熟知した上で、それをあざ笑いながら利用しているんだ。俺が爆弾の仕組みを理解しているのと同じようにね」
スズキは立ち上がり、取調室の隅にある影を見つめた。
「北原先生がなぜこれほどまでに達観しているのか。それは彼自身がかつて、この国の『まともな正義』によって、守るべきものをすべて焼き払われたからだ。彼は知っているんだよ。法律や道徳が、いかに脆く、いかに個人を平気で踏みにじるか。だから彼は、社会の内側にいながら、心は完全に『外側』に置いている。彼はね、暁海が櫂を愛し、櫂のために涙を流すことすらも、静かに許容する。嫉妬もしない。独占もしない。……これ、人間には不可能な芸当だよ。神か、あるいは感情を切り捨てたサイボーグか。等々力警部、あんたみたいな『普通』の人間には、一番理解しがたくて、一番恐ろしい存在だろう?」
等々力は無言でスズキを睨みつけていた。北原という男の生き方は、彼がこれまで命懸けで守ってきた「秩序」や「家庭の平穏」という概念を、根本から無意味なものに変えてしまう。
「今の日本はね、北原みたいな『賢い隠者』を必要としているんだ。表向きは従順な市民の顔をして、内側では完全に独自の倫理で動く。なぜなら、正面から社会と戦っても、櫂のように潰されるだけだからだ。北原が暁海に与えたのは、刺繍の技術じゃない。自分を殺さずに、社会の隙間で息をするための『酸素マスク』だ。……彼は、暁海という爆弾の安全装置を、極めて合理的に、丁寧に掛け直したんだよ」
スズキは再び椅子に座り、ニタリと笑った。
「お嬢ちゃん、あんた、北原先生が優しいと思うかい? 違うよ。あれは『絶望の極致』が生んだ機能美だ。彼は、誰からも理解されないことを前提に生きている。それは俺みたいな『無敵の人』とは別の意味で、この社会にとっての『爆弾』なんだよ。彼のような生き方が広まってみろ。あんたたちの管理する『戸籍』も『結婚』も、ただの紙屑になる。社会を支える基礎体温が、氷点下まで下がってしまうんだから」
スズキは本を閉じ、取調室の冷たい天井を見上げた。
「第5章の終わり……それは、暁海が北原という『静かな狂気』と同化し始める瞬間だ。彼女は気づくんだ。愛だけでは生きていけない。でも、システムを利用すれば、愛を隠し通すことはできる、と。……ねえ、警部さん。あんたの隣にいる同僚も、あんたの奥さんも、実は北原みたいに『別の論理』で動いているかもしれないよ? 誰も、あんたが見ている通りの人間じゃない。この取調室の外に出た瞬間、世界は仮面をつけた連中のダンスホールだ」
スズキの言葉は、まるで冷たい霧のように、沙良と等々力の足元を侵食していった。北原央海という男が体現する「合理的な救済」。それは、情熱を重んじる若者と、責任を重んじる大人の両方を、等しく無力化する劇薬だった。
「……さて、次は第6章だ。暁海がいよいよ、その華奢な手で『武器』を握る。刺繍の針を、自分の運命を切り拓くメスに変える話だ。……お嬢ちゃん、あんたのそのペンも、いつか誰かを刺す武器になるかもしれないね。楽しみだよ」
スズキタゴサクの不気味な笑みが、取調室の照明に照らされて、一層深く、どす黒く歪んで見えた。




