第126章 第3章
「……さあ、第3章だ。等々力警部、コーヒーはまだか? まあいい、この喉の渇きも、都会の砂漠で干からびていった男の末路を語るには丁度いいスパイスだ」
スズキタゴサクは、取調室の冷たい机に突っ伏すようにして、『汝、星のごとく』のページをめくった。その指先は、成功者の物語を汚すことに悦びを感じているかのように、ねっとりと湿っている。
「第3章のタイトルは『成功という名の挫折――櫂を破壊した都会の承認欲求』。お嬢ちゃん、あんたは『才能』があれば幸せになれると思っている口かい? だとしたら、この青埜櫂という男の転落は、あんたの安っぽい人生観を木っ端微塵にする劇薬になる」
スズキは天井の監視カメラを指差し、嘲笑うように言った。
「島を飛び出し、東京で漫画家として成功した櫂。彼はね、暁海という『光』を守るために、必死に金を稼ぎ、名声を手に入れた。立派じゃないか。でもね、ここが今の日本の恐ろしいところだ。都会っていうのは、才能を食い物にする巨大なシュレッダーなんだよ。櫂が描いた漫画は、読者に消費され、SNSで品評され、数字という残酷な物差しで毎日裁かれる。昨日の天才は、今日のゴミ。一回でも筆を止めれば、背後から『無能』という声が聞こえてくる。彼はね、成功すればするほど、自分という輪郭を失っていったんだ」
「……仕事で成果を出して、何が悪い」
等々力が苛立たしげに吐き捨てた。スズキは待っていましたとばかりに目を輝かせる。
「悪いなんて言ってないよ、警部さん。ただ、システムの話をしているんだ。今の日本社会はね、一度レールに乗った人間に『止まること』を許さない。櫂は暁海に良い生活をさせたい、彼女を島から救い出したいという一心で描き続けた。でも、その『愛』がいつの間にか『義務』に変わり、自分を縛る『呪い』になった。……警部さん、あんたもそうだろう? 家族のため、組織のため、正義のため。そうやって自分を削って、削って、最後には何が残る? 櫂に残ったのは、ボロボロになった心と、都会の冷たい風だけだった」
スズキは身を乗り出し、机を指でトントンと叩いた。
「この章で描かれるのは、承認欲求という名の麻薬だ。櫂は、見知らぬ誰かの『いいね』や『面白い』という声に依存した。それはね、彼が子供の頃に得られなかった母親からの愛情の代替品だったんだよ。でも、ネットの称賛なんていうのは、指の間からこぼれ落ちる砂みたいなもんだ。いくら集めても心は満たされない。それどころか、アンチのたった一言が、彼の築き上げた城を一瞬で焼き払う。……ねえ、お嬢ちゃん。あんたの世代は、スマホ一つで世界と繋がっていると思っているだろう? 違うんだよ。スマホ一つで、世界中の悪意と直結しているんだ」
スズキの言葉が、沙良の胸に重くのしかかる。彼女もまた、警察官という職務の中で、ネット上の無責任な批判に晒される同僚たちを見てきた。
「櫂が壊れていく過程を、凪良ゆうは残酷なまでに精緻に描いている。酒に逃げ、女に逃げ、そして……一番愛しているはずの暁海にすら、自分の弱さを見せられなくなる。なぜか。彼が『男らしく、強く、稼ぐ自分』という虚像に閉じ込められてしまったからだ。警部さん、これこそが現代日本の男性が抱える最大の病理だとは思わないかい? 『弱音を吐いたら終わり』という強迫観念。それが、どれだけの孤独死や自殺を生んでいるか。櫂はね、死ぬ前に一度、精神的に爆発していたんだよ。その破片が、彼と暁海の距離を決定的に引き裂いた」
スズキはふと悲しげな表情を作ってみせたが、その目は笑っていた。
「東京っていう場所はね、夢を叶える場所じゃない。自分の『欠落』を他人の目を使って確認する場所なんだ。櫂は、自分がどれだけ空っぽであるかを、100万人の読者に証明されてしまった。……滑稽だよねえ。彼が必死に描いた物語は、誰かの暇つぶしにしかならなかった。でも、その『暇つぶし』のために、彼は自分の命を削ったんだ。今の日本は、そういう残酷な等価交換で成り立っている」
スズキは再び本を閉じ、等々力を真っ向から見据えた。
「俺が仕掛けた爆弾もね、本質的には同じだよ。注目されたい、認められたい、俺という存在を世界に刻みつけたい。櫂がペンでやろうとしたことを、俺は火薬でやろうとした。ただそれだけの違いだ。……さあ、警部さん。櫂が都会で何を見たのか、そして彼が何を失って島へ戻ることになったのか。その絶望の味を、あんたも一緒に噛み締めてみようじゃないか」
スズキタゴサクの歪んだ独白は、取調室という閉鎖空間を、いつの間にか都会の路地裏のような湿った孤独で満たしていた。第3章――それは、きらびやかな成功の影で進行する、魂の緩やかな「自爆」の記録だった。
「……第4章では、もっとドロドロした話をしよう。櫂を追い詰めた、日本の『家父長制』のなれの果てをね。……コーヒー、まだ冷めてないだろうね?」




