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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン26

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第123章 第十章:なーんてね(終焉)


体育館の闇は、濃密な死の予感に満たされていた。全校生徒一千人の呼吸音が、一つの巨大な、追い詰められた生き物の呻きのように響く。その中心で、クラス委員の未來は、赤く明滅するデッドマンスイッチを握りしめ、壇上の巨大スクリーンに映し出された「怪物」を見つめていた。

スズキタメゴロウは、放送室の椅子に深く沈み込み、モニター越しに自分の「最高傑作」を眺めていた。呉勝浩の描く『爆弾』のスズキが、取調室という密室から東京中をパニックに陥れたように、彼は今、この学び舎を自らの承認欲求を捧げるための祭壇へと変えていた。

「さあ、未來さん。指の力を抜きなよ。そうすれば、君は『一千人を救うために一人の悪人を殺した正義の味方』にはなれないけれど、僕と一緒に『歴史に名を刻む共犯者』にはなれる。君のその綺麗な指先一つで、この退屈な日常を木端微塵にできるんだ。これほど官能的なクイズが他にあるかい?」

スズキの言葉は、生理的な嫌悪感を伴って、未来の耳腔を汚していく。未来の瞳からは、すでに涙は枯れていた。彼女の脳裏には、森口悠子のあの冷徹な声がリフレインしている。「命の重さを知りなさい」。

今の未来にとって、命の重さとは、手のひらに伝わるスイッチの硬い感触そのものだった。

その時、スズキの目の前にある放送用デスクの電話が鳴った。

この閉鎖された状況下で、外部から繋がるはずのない回線。スズキは不審に思いながらも、その「未知の介入」に好奇心を抑えきれず、受話器を上げた。

「……誰だい? 今、最高のクライマックスなんだ。邪魔しないでほしいな」

『スズキくん。私の声、忘れたわけじゃないわね?』

受話器から聞こえてきたのは、冷たく、そしてどこか慈悲深い、あの森口悠子の声だった。スズキの表情から、余裕の笑みが消える。

「森口先生……。なんだ、敗者の遠吠えかい? 見てなよ、あんたが大切に守ろうとした生徒たちが、今から僕の指先一つで――」

『いいえ、スズキくん。あなたは一つ、大きな勘違いをしているわ』

森口の声は、放送室のスピーカーを通じて、体育館にいる全員にも届いていた。スズキが操作ミスをしたのか、あるいは森口がシステムを掌握したのか。

『あなたが仕掛けた爆弾。体育館の四隅と天井にある、あの装置。……実はね、私が昨夜、少しだけ手を加えさせてもらったの』

「……なんだって?」

『あなたが盗み出した液体窒素とガソリン。あれを本物の爆弾にするには、少しばかり精製が甘かったわ。だから、私はあなたの設計図を元に、より確実で、より強力な「中身」に入れ替えておいたのよ。私の夫――愛美の父が、かつて研究していた高効率の爆薬にね』

スズキの背筋に、初めて本物の「死の予感」が走った。彼は狂ったようにキーボードを叩き、爆弾のステータスを確認しようとする。

「嘘だ! 僕の計算に間違いはない! あんたなんかに、僕の芸術をいじらせるわけがない!」

『ええ、あなたの計算は完璧だった。でも、あなたは「人間」を計算に入れていなかった。……あなたが最も愛し、最も認めてほしかった「お母さん」のことよ』

その言葉が出た瞬間、放送室のモニターに一つの映像が割り込んだ。

それは、とある大学の研究室。一人の女性が、一心不乱に顕微鏡を覗き込んでいる。スズキが壁に写真を貼り、神のように崇めていた、あの母親だった。

「母さん……? なぜ、そこに……」

『彼女はね、あなたのことなんて、これっぽっちも覚えていなかったわ。私が彼女を訪ねた時、彼女は何と言ったと思う? 「そんな名前の教え子がいたかしら」……。スズキくん、あなたは彼女にとって、過去に捨てた出来損ないの実験道具ですらなかったのよ』

「黙れ……黙れ黙れ黙れ!」

スズキは受話器を叩きつけた。彼の自意識という名の城壁が、音を立てて崩れていく。彼が爆弾を仕掛けたのは、母に自分を見つけさせるためだった。母という太陽に、自分の存在を焼き付けてほしかったからだ。それが否定された今、彼の世界は意味を失った。

『でも安心して、スズキくん。彼女は今、あなたの「最高傑作」のそばにいるわ』

「……え?」

『私が彼女に伝えたの。「あなたの息子さんが、素晴らしい発明品を見せたいと言っています。工学界の歴史を変えるような、本物の爆弾を」とね。彼女は、その「発明」にだけは興味を示したわ。今、彼女が立っている場所……。そこは、あなたが爆破予告の「予備」として設置した、あの大学の旧講堂よ』

スズキの顔から、一気に血の気が引いた。

彼は、もし学校の爆破が阻止された時のために、自分の母校であり、母が勤務する大学にも予備の爆弾を仕掛けていた。自分と母を繋ぐ、最後の「へその緒」として。

『スズキくん。未來さんが今持っているスイッチはね、体育館の爆弾を起動させるものじゃない。……あなたが仕掛けた、お母さんの真下に眠る爆弾の、最後の一秒を止めるためのものよ』

スズキは絶叫した。

「未來! 離すな! そのスイッチを絶対に離すな!」

だが、その言葉は遅すぎた。

体育館の中央で、未來は、スズキのその醜悪な叫びを聞いた瞬間、自分の中にあった「正義」も「殺意」も、すべてがどうでもよくなっていた。彼女は、ただこの「汚染された世界」から自分を解放したかった。

未来は、そっと、手のひらを広げた。

「……さよなら」

スイッチが、床に落ちる。

カチッ、という小さな音が、体育館の静寂の中で、世界の終わりを告げる号砲となった。

しかし、体育館は爆発しなかった。

一秒。二秒。三秒。

静寂が支配する中、スズキの持つモニターに、遠く離れた大学の講堂が、真っ白い光に包まれる様子が映し出された。

無音の爆発。

スズキが最も愛し、最も憎み、最も認められたかった存在が、スズキ自身が作った(そして森口が完成させた)爆弾によって、分子レベルまで粉砕されていく。

「ああ……あああああああああ!」

放送室でスズキは、自分の喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。

彼は死ななかった。森口は、彼を殺さなかった。

その代わりに、彼の魂の拠り所を、彼の自意識のすべてを、彼自身の手で殺させたのだ。

これからスズキを待つのは、エイズによる死の恐怖ではない。最愛の母を自分の手で消し去ったという、地獄よりも深い「空虚」の中で、死ぬまで生き続けるという罰だった。

体育館の照明が、ゆっくりと点灯した。

生徒たちは、自分たちが助かったことを知り、安堵の涙を流し始める。だが、未來だけは、虚脱したように床に座り込み、自分の汚れた手を見つめていた。

校長の清沢は、腰を抜かしながらも、真っ先にスマートフォンを取り出した。「警察か? 犯人を確保した! 爆弾は阻止された! 学校の被害は最小限だ!」……。彼は、最後まで自分の椅子を守れたことに狂喜していた。だが、彼が守ったはずの学校という組織は、すでに森口悠子の告白によって、その精神的支柱を失い、腐敗しきった残骸へと成り果てていた。

類輝るいけは、混乱する生徒たちの間を縫って、一人で校門へと向かっていた。

彼は手帳の最後のページに、淀みのない文字でこう記した。

『観測終了。実験結果:命の重さは、それを喪失した瞬間にのみ定義される。スズキタメゴロウという個体は、自己の存在理由(母親)を物理的に消滅させることで、完全な「透明人間」へと回帰した。森口悠子の復讐、完了』

類輝は、校門の影に佇む一人の女性を見つけた。

森口悠子。

彼女は、すべてを終えた空虚な瞳で、茜色に染まる校舎を見上げていた。

「先生。満足ですか?」

類輝が問いかける。

森口は、ゆっくりと類輝に顔を向けた。その表情には、勝利の喜びも、娘を失った悲しみも、もはや何も残っていなかった。あるのは、すべての感情を燃やし尽くした後の、白い灰のような静謐さだけだ。

「……ええ。これで、ようやく授業が終われるわ」

彼女は、遠くでパトカーのサイレンが鳴り響く中、一歩ずつ、学校から遠ざかっていく。

その足取りは、呪縛から解き放たれたようでもあり、永遠の孤独へと足を踏み入れるようでもあった。

彼女の脳裏には、愛美が笑っている姿が浮かんでいた。

だが、その笑顔さえも、今や復讐という毒によって、ひどく歪んで見えた。

森口は、ふと立ち止まり、誰にともなく囁いた。

「ここから、あなたの更生の第一歩が始まるんです」

彼女の唇が、わずかに吊り上がる。

かつての「聖職者」としての優しさと、すべてを破壊した「怪物」としての残忍さが同居した、歪な微笑み。

「……なーんてね」

その一言が、冬の冷たい空気の中に溶けて消えた。

学校という名の取調室で、爆弾男と復讐者が踊った狂気劇は、最悪の、そして最高の結末を迎えた。

残されたのは、崩壊した組織と、汚染された正義。

そして、命の重さを知らないまま、ただ「生き残ってしまった」者たちの、終わりのない沈黙だけだった。

夕陽が地平線に沈み、街に夜が訪れる。

それは、昨日までと同じようでいて、決定的に何かが失われた、新しい地獄の始まりであった。


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