第122章 第九章:崩壊する聖母(心中)
体育館がスズキタメゴロウの「トロッコ問題」によって、阿鼻叫喚の坩堝と化しているその時刻。学校から数キロメートル離れた東堂功の自宅は、墓場のような静寂に包まれていた。しかし、その静寂は平穏を意味するものではない。それは、沸点を超えた熱が外に漏れ出すのを拒んでいる、高圧釜のような危うい均衡であった。
カーテンが閉め切られ、昼間だというのに薄暗いリビング。空気は澱み、そこには生活の香りではなく、消毒液の臭いと、人間の精神が腐敗したときに放つ独特の生理的な不快感が充満していた。
「功……。ご飯、持ってきたわよ。あなたの好きな、ハンバーグ」
下村優子の声は、かつてのような慈愛に満ちた調べを保っていた。しかし、その瞳には光がなく、焦点は虚空を彷徨っている。彼女の精神は、森口悠子が放った「血液の毒」によって、すでに崩壊の淵に立っていた。呉勝浩の描く『爆弾』において、絶望の果てに自意識を歪ませる市井の人々と同じように、彼女は今、自分たち親子を救うための「最終的な答え」に辿り着こうとしていた。
「いらない……。お母さん、もうやめてよ。僕の中に、あの汚い血が流れてるんだ。僕はもう、汚れたんだ」
部屋の隅、影の中にうずくまる東堂功が、ひび割れた声で応えた。彼の姿は、数日で見る影もなく窶れていた。頬はこけ、目は落ち窪み、手首には無数の、しかし浅い切り傷が並んでいる。彼は死にたかったが、自分の手で自らを終わらせるほどの「特別」な勇気さえ持ち合わせていなかった。
「汚れてなんていないわ。功は世界で一番清らかな子よ。あんな先生の言うことなんて、全部嘘。あなたは、私が守る。お母さんが、全部綺麗にしてあげるから」
優子は、這うようにして息子に近づいた。彼女の手には、銀色に光る牛刀が握られていた。それは、料理という日常の営みの道具ではなく、今や「聖母」が「供犠」を執行するための祭具へと変質していた。
「綺麗にするって……どうやって?」
功が顔を上げた。その瞳に一瞬だけ、かつてスズキに認められたいと願っていた時の、歪んだ承認欲求の火が灯る。
「ねえ、お母さん。僕、死んだら『特別』になれる? スズキみたいに、みんなに覚えられる?」
優子は、震える手で息子の頬を撫でた。
「ええ、なれるわ。私たち二人で、この汚れた世界からおさらばしましょう。そうすれば、誰も私たちを傷つけることはできない。私たちは永遠に、清らかな親子のままでいられるの」
その瞬間、優子の脳裏には、森口悠子の冷徹な顔が浮かんでいた。森口は言った。子供の命を奪うことがどれほど重いことか、その身をもって知れと。優子にとって、その復讐への回答は、この「心中」以外にあり得なかった。息子が殺人者として蔑まれ、病に蝕まれて朽ちていくのを見るくらいなら、自分の手で、最も美しい瞬間に時間を止めてやる。それが彼女の導き出した、狂信的な「母性のロジック」だった。
「功、こっちへおいで」
優子は包丁を振り上げた。
しかし、その時、功の口から漏れたのは、感謝の言葉ではなかった。
「……あは、あはははは! お母さん、あんたもスズキと同じだ」
功は狂ったように笑い始めた。彼の笑い声は、取調室で刑事を翻弄するスズキタメゴロウのそれと同じ、生理的な嫌悪感を伴う響きを持っていた。
「あんたが守りたいのは僕じゃない。自分の中の『理想の息子』でしょ? 僕が殺人犯だって認めたくないだけでしょ? あんたの愛なんて、ただの自己満足だ。気持ち悪いんだよ!」
「な、何を言っているの、功……。お母さんは、あなたのために……」
「僕のため? 嘘だ! あんたは僕を『駒』にしてたんだ。自分の幸せを証明するための、動く人形として! 森口先生の方が、よっぽど僕のことを見てたよ。あの人は、僕を『犯人B』として、一人の人間として憎んでくれた!」
功は立ち上がり、母の持つ包丁の刃を、自らの胸元に引き寄せた。
「やってみなよ。僕を殺して、あんたの『聖母伝説』を完成させてみろよ。でも、僕が死んだら、あんたはただの『子殺しの狂女』として一生を終えるんだ。ざまあみろ!」
優子の顔から血の気が引いた。彼女が築き上げてきた「美しい家庭」という名の砂の城が、内側から爆発を起こした。彼女が守ろうとした「息子」という偶像は、今や目の前で、最も醜悪な言葉を投げつける「怪物」へと変貌していた。
「あああああ!」
優子は叫び声を上げ、包丁を振り下ろした。
それは愛ゆえの救済ではなく、自らのプライドを傷つけられたことへの、最も生々しい「逆上」であった。
肉体を切り裂く、鈍い音。
返り血が、清潔だったリビングの壁に、ドス黒い模様を描き出す。
功は、自分の腹部から溢れ出す熱い液体を感じながら、どこか遠い場所でスズキが笑っているような気がした。
(スズキ……。僕、ついに『特別』になれたかな……)
だが、視界が薄れていく中で彼が最後に見たのは、泣き叫びながら自分の喉を掻き切ろうとする、狂った母親の姿だった。
そこには芸術も、論理も、崇高な復讐もなかった。
あるのは、互いのエゴをぶつけ合い、共倒れしていく、救いようのない凡人たちの泥仕合だけだった。
類輝は、その家の外で、通気口から漏れ出す微かな血の匂いと、静寂の質の変化を敏感に感じ取っていた。
彼は手帳をめくり、新しい項を追加する。
『観測記録:下村家、崩壊。母性という名の爆弾は、内側に向かって炸裂した。生存確率、ゼロ。特記事項:死の間際、個体Bは自己の存在を否定することで、逆説的な承認を獲得したと推測される』
類輝は、一度もその家を振り返ることなく、歩き始めた。
彼にとって、一つの家庭が消滅したことは、単なるデータの蓄積に過ぎない。しかし、その顔には、森口悠子が仕掛けたこの「連鎖」の美しさに、微かな戦慄が走っていた。
「聖母」は死に、「子供」も死んだ。
残されたのは、体育館でクライマックスを迎えようとしている「怪物」と「復讐者」の対決だけだ。
街は、冬の夕暮れに染まっていく。
その赤は、東堂家のリビングを染めた血の色と同じ、どす黒い輝きを放っていた。




