第121章 第八章:トロッコ問題の教室
三月。本来ならば別れと門出を祝うはずの体育館は、鉄錆と生ぬるい体温が混ざり合った、巨大な「密室」と化していた。卒業式の予行演習という名目で集められた全校生徒一千人の視線は、壇上の演説台ではなく、その中心に鎮座する異様な「装置」に釘付けになっていた。
呉勝浩の描く『爆弾』におけるスズキタゴサク――否、スズキタメゴロウが仕掛けたのは、単なる爆発物ではない。それは、人間の倫理観を物理的に粉砕するための、巨大な「トロッコ問題」の具現化であった。
「さあ、全校生徒の皆さん。そして、モニターの向こうで見守っているであろう森口先生」
スピーカーから流れるスズキの声は、相変わらず生理的な嫌悪感を誘う湿り気を帯びていた。壇上の巨大スクリーンには、別室の放送室からこちらを覗き込むスズキの顔がアップで映し出されている。数日間洗っていないであろう脂ぎった髪、薄汚い肌、そして何よりも、知性で他者を蹂躙することに快感を覚える「怪物」の瞳。
「クイズの時間です。この体育館の四隅、および天井の梁には、僕が丹精込めて作り上げた液体窒素とガソリンのハイブリッド爆弾が設置されています。威力は十分。スイッチ一つで、この空間は一瞬で真空の地獄に変わる」
悲鳴を上げようとした生徒たちの喉は、恐怖によって凍りついた。スズキは、その「無力な傍観者」たちの反応を心底楽しそうに眺めている。
「ルールは簡単だ。このスイッチを持っているのは、僕じゃない。クラス委員の未來さんだ」
カメラが切り替わり、体育館の中央、爆弾のコアユニットの前に立ち尽くす未來を映し出した。彼女の手には、震える指先で握りしめられたデッドマンスイッチ。指を離せば、あるいは彼女が倒れれば、すべてが終わる。
「未來さん、君は正義感が強い。だから、僕のような『悪』を許せないはずだ。そこで提案だ。君が今すぐその足元にあるナイフで僕を殺しに来るか、あるいは僕の指示通りにスイッチを押し続けるか。僕を殺せば、爆弾のタイマーは止まる。一千人の命と、一人のクズ(僕)の命。君はどちらを選ぶ?」
これはスズキがよく使う「命の選別」の変奏曲であった。優秀な若者か、無職の老人か。あるいは、加害者の命か、一千人の被害者の命か。スズキは、未來という「未熟な正義」に対し、パンドラの箱の底に残った殺意を暴発させるよう促している。
体育館の袖では、校長の清沢が顔を真っ青にして、警察への通報を遮ろうとしていた。
「待て! まだ公にするな! 我々の管理責任が問われる! まずは説得だ、内々に処理するんだ!」
清沢の「組織の論理」は、この極限状態においてもなお、自身の保身という一点にのみ固執していた。彼は、スズキという怪物が「権威」や「メンツ」といった大人の理屈を最も嫌い、それを破壊することに悦びを感じる存在であることを理解していなかった。
「清沢先生、あんたは本当に最高だ。生徒が死ぬかもしれないって時に、まだ自分の椅子の心配をしてる。あんたのその『魂のない官僚』っぷりが、僕の爆弾に最高の火力を与えてくれるんだよ」
スズキの冷笑が館内に響き渡る。
その頃、体育館の裏口には、一人の男が泥にまみれて辿り着いていた。東堂正志。犯人Bである東堂功の父であり、現職の刑事だ。彼は組織の命令を無視し、個人的な「意地」だけでここまで走ってきた。
「功……。功はどこだ!」
正志は、スズキの狂気に当てられ、自宅で廃人のようになった息子を思い、歯を食いしばった。彼は類輝という風変わりな生徒から情報を得ていた。類輝は、この地獄絵図を「共感なき理解」で見つめ、事件の推移を冷徹に分析し続けていた。
「東堂さん、焦っても無駄ですよ。スズキは感情ではなく論理で動いている。彼が求めているのは、僕たちの『選択』の結果だ」
類輝は、いつの間にか正志の背後に立っていた。ボサボサの髪を揺らし、感情の欠落した瞳で、体育館という名の「検体」を観察している。
「未來さんは、もう汚染されている。彼女の正義は、すでに殺意に反転した。スズキはそれを見越して、彼女を『実行犯』に仕立て上げようとしているんです」
類輝の指摘通り、未來の瞳には、かつての清廉な光はなかった。彼女の脳裏には、スズキから送られてきた「愛美殺害の真実」の映像が、呪いのように焼き付いている。
「あいつさえ……あいつさえ、死ねば……」
彼女は、一千人の命を守るという大義名分を盾にして、自分の中のドス黒い殺意を正当化し始めていた。それは、森口悠子が娘のために復讐を選んだのと同じ、絶望的な自己変革であった。
「さあ、クイズの締め切りだよ! 未来さん、殺しにおいでよ。この『透明人間』に、ようやくスポットライトが当たるんだ!」
スズキは叫んだ。彼の承認欲求は、死の恐怖さえも凌駕し、今やこの体育館を一つの「巨大な告白の場」へと変えようとしていた。
清沢の無様な叫び。
正志の泥臭い執念。
類輝の冷徹な観測。
そして、未来の震える指先。
すべての要素が、スズキの計算した「爆発」の瞬間へと収束していく。
森口悠子が仕掛けた血液の毒は、今や物理的な爆弾となって、学校という組織そのものを内側から焼き尽くそうとしていた。
「第一問の答え、聞かせてよ!」
スズキの歓喜の叫びと共に、体育館の照明が一斉に落ちた。暗闇の中で、未來の持つスイッチの赤色のLEDだけが、まるでこの地獄の心臓の鼓動のように、激しく明滅を始めた。




