第30章 家賃滞納と大学教授の誘惑
東京の場末、荒川区の隅っこに建つ築40年の木造アパート「池の端荘」。その一室、家賃2万1千円の山田奈美子の部屋は、今日も静寂と空腹に包まれていた。
「……ひもじい。ひもじすぎるわ」
自称・超実力派天才マジシャンの山田奈美子は、万年床の上で芋虫のように丸まっていた。彼女の目の前には、近所のスーパーで半額になっていた、賞味期限が数時間後に迫った見切り品の「お徳用もやし」が一袋あるのみ。
彼女はむくりと起き上がると、手品の練習用のトランプを手に取った。
「見てなさいよ。このもやしを、高級ブランド牛のステーキに変えてみせるわ……! えいっ!」
奈美子が鮮やかな手つきでトランプを扇形に広げ、もやしの上で一回転させた。だが、物理法則は残酷である。もやしはもやしのまま、ただ少しばかりトランプの角が当たって傷ついただけだった。
「……**残像現象(ざんぞうげんしょう:強い光や急速な動きの刺激が消えた後も、網膜にその刺激がわずかな時間残り続ける現象)**を利用して、一瞬ステーキに見せることはできても、胃袋までは騙せないわね……」
彼女が力なく溜息をついたその時、アパートの廊下から地響きのような足音が近づいてきた。奈美子の心臓が跳ね上がる。この足音の主を知っている。
「山田さーん! いるんでしょ! 山田さーん!」
激しいノックと共に、ドアが建付けの悪さを強調するようにガタガタと震える。大家の銭村カネである。
「山田さん、今月も、先月も、先々月も! 家賃が三ヶ月分、合計6万3千円溜まってるのよ! 払えないなら、その自称・天才的な指先を使って、今すぐお札を刷ってちょうだい!」
「カネさん、そんな無茶な……。今、世界的な興行主からオファーが来ているところなんです。来月には、ラスベガスのカジノを札束で買い叩く予定なんですから」
奈美子はドア越しに必死の嘘を並べ立てる。横では、隣人のバングラデシュ人、ジャミールが片言で口を挟んだ。
「ナミコさん、ウソ。昨日、近所の神社の祭りでハトを出して、子供に『ハトが痩せててかわいそう』って泣かれてたネ」
「うるさいわね、ジャミール! あのハトはダイエット中だったのよ!」
その時、アパートの前に一台の異様な車が止まった。かつては名車と呼ばれたであろうトヨタ・パブリカ、通称「次郎号」だ。だが、その姿は無残だった。助手席のドアは針金で固定され、ボンネットからはうっすらと煙が上がっている。
「ふむ……。またしても**内燃機関(ないねんきかん:燃料をシリンダーの内部で燃焼させ、その熱エネルギーを機械的な動力に変換する装置)**の機嫌が悪いようだな。日科大の私の知性が、この鉄の塊に追いついていない証拠だ」
車から降りてきたのは、長い足を折り畳むようにして座っていた大男。日本科学技術大学物理学教授、志村次郎である。彼はビシッと決めたスーツ(しかしよく見ると袖口が擦り切れている)の襟を正し、池の端荘の階段を一段飛ばしで上がってきた。
「山田君! 山田君はいるかね!」
カネに詰め寄られていた奈美子は、救いの神――あるいは死神――の登場に顔をしかめた。
「あら、ビッグマグナム志村じゃない。また変な事件に首を突っ込んで、腰を抜かして帰ってきたの?」
「失礼な! 私は常に冷静沈着、科学の信奉者だ。昨日も、通信教育で習った『真空飛び膝蹴り』の練習中に**位置エネルギー(いちエネルギー:物体が特定の高さにあることによって蓄えられる、仕事をする能力)**を完璧に制御し、地面との見事なコンタクト、世間一般で言うところの『転倒』を完遂したばかりだ」
志村は胸を張り、カネを軽くあしらうと、奈美子の部屋に勝手に入り込んだ。
「山田君、実はまたしても私の著書『どんと来い、超常現象』のネタになりそうな……いや、科学的に糾弾すべき忌まわしい事件が舞い込んできたのだ」
「お断りよ。私、今忙しいの」
「家賃三ヶ月分プラス、一ヶ月分。つまり、8万4千円。これを私が立て替えようじゃないか」
奈美子の目が、一瞬にして**全反射(ぜんはんしゃ:光が屈折率の大きい媒体から小さい媒体へ入る際、境界ですべて反射される現象。ここでは奈美子の目が金の計算でキラリと光った様子)**を起こしたかのように輝いた。
「……詳しく聞かせて。物理学者の助手として、私の天才的なマジックの知識が必要なんでしょ?」
志村は満足げに頷き、カバンから一枚の古びた写真を取り出した。そこには、土の中から掘り出されたような、奇妙な土器の壺が写っていた。
「これは、長野県の山奥にある『雷鳴村』の遺跡から見つかった、いわゆるオーパーツだ。村人たちはこれを『バグダッド電池』と呼び、御神体としている」
「バグダッド電池? 何それ、怪しいわね」
「2000年以上前、まだ電気が発見されていないはずの時代に作られた、古代の電池だ。だが問題はそこじゃない。現在、その村を支配している『雷光』と名乗る導師が、この壺から『神の雷』を取り出し、信じぬ者に天罰を下しているというのだ」
「電気……? その時代の壺から電気が流れるわけないじゃない」
「左様。**電解質(でんかいしつ:水などの溶媒に溶けた際に、陽イオンと陰イオンに分かれて電流を流す性質を持つ物質)**がなければ電池は機能しない。雷光が何らかのトリックを使っているのは明白だ。しかし、村に行った調査員が、触れてもいないのに感電して倒れたという報告がある。これは物理学への挑戦だ」
志村はいつになく真剣な表情……に見えるが、実は足がわずかに震えているのを、奈美子は見逃さなかった。
「要するに、一人で行くのが怖いのね、ビッグマグナム」
「ば、ばっ……! 私はただ、君のような貧乏人に、世界最高峰の知性に触れる機会を与えてやろうという慈悲の心で……!」
「はいはい。じゃあ、まずはその家賃代、前払いでお願いね。私の**毛細管現象(もうさいかんげんしょう:細い管状の物体の内部を、液体が表面張力によって吸い上げられていく現象)**並みに鋭い金銭感覚によれば、まずは現金を確認しないと動けないわ」
奈美子は志村の手から、渋々差し出された一万円札数枚をもぎ取った。
「よし、決まりだ! 山田君、雷鳴村へ向かうぞ。私たちの前では、いかなるインチキ霊能力も無力だ。Why don't you do your best?」
「……その変な英語、やめたほうがいいわよ」
二人はボロボロの次郎号に乗り込んだ。車が走り出した瞬間、バックミラーがポロリと外れ、奈美子の膝の上に落ちた。
「……志村さん、これ、**自由落下(じゆうらっか:物体が重力以外の外力を受けずに、重力の働きだけで落下する運動)**したんだけど」
「気にするな。私の知性はバックミラーなど必要とせんのだ。前だけを見て突き進むのみ!」
こうして、貧乏手品師と臆病な物理学教授の凸凹コンビは、怪しげな因習と古代のオーパーツが待ち受ける雷鳴村へと向かうことになった。
その頃、警視庁の一室では。
「……雷鳴村、じゃと?」
独特の広島弁もどきを操る男、桂健一刑事が、部下の猿渡辰を従えて、机の上に広げられた資料を睨んでいた。
「アニキ、この村、最近不審な死に方をしてる資産家が多いらしいっすよ。みんな、心臓麻痺みたいな感じで」
「心臓麻痺……。これは、わしの特殊捜査官としての『毛根の予感』が告げておるわ。猿渡、行くぞ。この村には、わしが暴くべき『重大な秘密』が隠されているようじゃ」
桂は、窓から吹き込んだわずかな風に過剰に反応し、両手で頭をがっしりと押さえながら立ち上がった。
「その秘密、まるっと……じゃなかった、わしの手柄にしてくれるわい!」
怪しい雲が、長野の空へと集まり始めていた。




