第29章 :収束進化の果てに
「肉……和牛……A5ランクの霜降りが、私の喉元をリズミカルに通過していく幻影が見えます……。志村さん、これはいわゆる物理学的な『量子のもつれ』による遠隔摂食現象でしょうか」
朝日が昇り始めた古生物村。山田奈美子は、精根尽き果てた様子で村の中央広場を這いずっていた。 彼女の胃袋は、もはや空腹を通り越して、それ自体がブラックホールのように周囲の時空を歪ませ、あらゆる有機物を吸い込もうとする特異点と化していた。
「ナミコ君、しっかりしたまえ。君の脳が見せているのは単なるグリコーゲン枯渇に伴う幻覚、すなわち『体内の貯蔵エネルギーが底を突き、脳が生存本能から偽の報酬情報を提示している状態』に過ぎん。物理学的に見て、そこに肉は存在しない。あるのは冷酷な熱力学第二法則だけだ」
志村次郎は、ボロボロになった自著『どんと来い、超常現象』を小脇に抱え、朝露に濡れたスーツの汚れを(大して綺麗にならないのに)必死に払っていた。
「……そんな冷たいこと言わないでくださいよ。エヒャヒャヒャ! 志村さんだって、さっきから生唾を飲み込む音が、ドップラー効果、すなわち『波源と観測者の相対的な運動によって、音や光の周波数が変化して聞こえる現象』の影響で、村中に響き渡っていますよ」
「失礼な! 私の唾液腺は常に、知的好奇心という名の触媒によって活性化されているのだ!」
二人がそんな不毛なやり取りを続けていると、村の奥にある「五眼神社の本殿」から、激しい物音が響いた。
「待てぇぇ! 逃がさんぞ、このインチキ祈祷師がぁ! わしの『公安の機密事項』を返せぇぇ!」
桂健一刑事が、頭にぐるぐる巻きにしていた包帯の端を風になびかせながら、血眼になって古門を追いかけてきた。 その後ろでは、猿渡辰が「アニキ! 包帯が解けて、中から『公安の聖域』がコンニチハしそうっす!」と叫びながら走っている。
祈祷師・古門は、村に代々伝わるという重厚な石の箱を抱え、崖っぷちへと追い詰められていた。
「……愚かな。これを開ければ、真の神が目覚める。お前たちの信じる『平穏な進化』など、一瞬で瓦解するのだ!」
古門が狂ったように叫び、石の箱の蓋をこじ開けようとした。その瞬間、奈美子が懐から一枚のトランプを投げた。トランプは古門の手に当たって箱を弾き飛ばし、中身が朝日に照らされて地面に転がった。
転がり出たのは、これまで見てきたどの怪物よりも「普通」で、しかしどこか見覚えのある小さな化石だった。
収束進化という名の「正解」
「……何だ、これ。ただの、魚の化石じゃないですか」 奈美子が拍子抜けした声を上げる。
「フフフ、見たまえ古門君。これこそが、君が隠し続けていた『不都合な真実』だ」 志村が、崖の縁でギリギリのポーズを決めながら(風でよろけつつも)語り始めた。
「君は、古代生物の『奇妙な形』こそが生命の本来あるべき姿だと主張した。だが、この化石が証明しているのはその逆だ。これは収束進化(Convergent Evolution)、すなわち『異なる系統の生物が、似た環境に適応した結果、独立に似たような形態や機能を獲得すること』が、数億年前からすでに始まっていた証拠なのだよ」
志村は、地面に落ちた化石を指差した。
「いいか、初期の進化は確かに形態空間、すなわち『生物が取り得る形態の論理的な可能性の全範囲』を埋め尽くそうとする、デタラメな試行錯誤だった。だが、重力があり、流体抵抗があり、光が届くこの地球という環境において、生き残るための『設計の正解』は驚くほど限られているのだ」
>
「設計の正解……?」 桂が、包帯を押さえながら尋ねる。
「そうだ。例えば、水の中を速く泳ぐには流線型が最も効率的だ。だから、魚も、絶滅した魚竜も、哺乳類であるイルカも、全く別の系統から出発しながら、最終的には同じ形に辿り着いた。これが適応的ピーク(Adaptive Peak)、すなわち『適応度地形において、生存に最も有利な極大地点』への到達なのだ」
志村は、いつになく真剣な表情で続けた。
「君が『奇妙な神』と呼んでいた化石は、劣っていたから消えたのではない。ただ、よりエネルギー効率が良く、発生が安定した『成功した設計』へと至る、**途中経過(中間形態)**に過ぎなかったのだよ。生命は奇妙さを求めていたのではない。奇妙さを削ぎ落とし、究極の機能美へと向かうプロセスの中にあったのだ。Why don't you accept the reality? 君の信じる『奇妙な神』は、単なる『未完成品』だったのだよ」
古門は力なく膝をついた。「……私は、ただ……この退屈な世界に、かつての混沌を取り戻したかっただけなのだ……」
「混沌なんて、志村さんの部屋の中だけで十分ですよ。エヒャヒャヒャ!」 奈美子の笑い声が、朝の村に響き渡った。
非情なる和牛の真実
事件は解決した。古門は桂刑事によって(頭髪の秘密を守るための必死の形相で)連行され、村には再び静かな時間が流れた。
「さて、志村さん。約束の報酬をいただきましょうか。村特産の高級和牛、A5ランクの食べ放題!」 奈美子は、持参した箸を両手に構え、村長(代理の親戚)に向き直った。
「……ああ、それなんですが」 村長代理は困ったように頭を掻いた。「実は、古門が皆に見せていた『和牛』というのは、あのバージェス頁岩の幻覚剤で、ただの『古いコンニャク』を肉だと思い込ませていただけなんです」
「……はい?」 奈美子の動きが止まる。
「つまり、村に和牛なんて一頭もいません。皆さんに昨日からお出ししていたのも、すべて味付けしたコンニャクです。本物の和牛は、古門が自分一人の食費として村の予算から横領していました」
「………………」
奈美子の手から箸が滑り落ちた。彼女の脳内で、霜降りのステーキが音を立てて崩れ、真っ黒なコンニャクへと変貌していく。これはまさに自然淘汰(Natural Selection)、すなわち『環境に適応できない個体(あるいは希望)が淘汰され、厳しい現実だけが残るプロセス』であった。
「Why don't you do your best? ……ナミコ君、物理学的に見て、コンニャクも和牛も、所詮は炭素と窒素と水素の化合物だ。原子レベルで見れば同じものだよ。ハハハ……」
「……志村さん。私の空腹は、原子レベルでは解決しません。どんといってやる前に、私の胃袋が爆発して適応度地形の谷底に消えてしまいますよ」
エピローグ:次郎号、東京へ
数時間後。ボロボロの次郎号は、ガムテープで固定されたドアをガタガタと鳴らしながら、中央道を東京へ向けて走っていた。 助手席では、奈美子がコンニャクの詰め合わせが入ったビニール袋を抱え、死んだような目で窓の外を眺めていた。
「志村さん……。結局、家賃三ヶ月分はどうなるんですか。銭村カネさんは、コンニャクでは納得しませんよ」
「安心したまえ。今回の事件のレポートを『超常現象の物理学的解体』として学会に発表すれば、莫大な……いや、微々たる研究助成金が出るはずだ。それで、君の家賃の……0.5パーセントくらいは補填してあげよう」
「少なっ! お前のケチっぷりは、全部まるっとお見通しだ!」
その頃、後方のパトカーの中では、桂刑事が窓から入る微風に怯えながら、部下の猿渡に命じていた。
「猿渡……。わしのこの『公安の聖域』を、これからは運河化するんじゃ。どんな風が吹こうとも、決して動かぬ、鉄壁の固定ルールを作るんじゃ……」
「アニキ! それは生物学じゃなくて、強力なアロンアルファの領分っす!」
山を越え、都会の喧騒が見えてくる。奈美子の懐では、母・里子から新たな「言霊の書」が届いていた。
『奈美子。形あるものはいつか崩れるけれど、空腹だけは永遠の真理よ。
今夜の我が家は、最高級の和牛すき焼きです。
追伸:大家さんに、よろしくね。』
「お母様……。いつか、絶対に実家に帰って、冷蔵庫の中身を全部まるっと平らげてやるんだから……!」
奈美子の叫びを乗せて、次郎号は黒煙を上げながら走り去っていく。進化の迷宮を抜け出した彼女たちを待っているのは、相変わらず「奇妙」で、しかし「合理的」なほど過酷な、いつもの日常であった。




