第26章 :保存バイアス 〜見えすぎる死体〜
「……志村さん、聞こえますか。私の胃袋が奏でる、悲しみのレクイエムが。和牛どころか、うどん一筋さえ見当たらないこの状況……。これはもう、物理学的にもマジック的にも、餓死という名の完全犯罪が成立してしまいますよ」
洞窟の奥、古門の「逆さまの腕」の追撃を間一髪で逃れた山田奈美子と志村次郎は、村のさらに奥まった場所に位置する、奇妙な静寂に包まれた広場に辿り着いていた。奈美子は空腹のあまり、道端に転がっている石ころが、こんがり焼けたジャガイモに見え始めていた。
「ナミコ君、泣き言を言うな。私の計算によれば、空腹による幻覚は、精神の相転移、すなわち『物質の状態がマクロな性質の異なる別の状態へ一変する現象』を引き起こし、新たな知覚の扉を開くはずだ。ほら、私の『ビッグ・マグナム』も、未知のエネルギーに反応して震えているぞ」
「それ、ただの武者震いっていうか、恐怖で膝がガクガクいってるだけじゃないですか。エヒャヒャヒャ!」
志村は無視して、懐からボロボロの自著『どんと来い、超常現象』を取り出し、周囲を警戒した。
その時、村の奥から「ギャァァァ!」という、魂を削り取るような絶叫が響き渡った。
「な、なんだ! 今の叫び声は! 物理学的にはデシベル数が許容範囲を大きく超えているぞ!」
二人が声のした方へ駆け寄ると、そこには村人たちが輪になり、何かを囲んで震え上がっていた。その中心にいたのは、捜査のために変装(という名の、顔面包帯ぐるぐる巻き)をしていた桂健一刑事と、その部下の猿渡辰だった。
「桂さん! また何か失くしたんですか? 今度は眉毛ですか?」
「山田! 志村! 眉毛どころの騒ぎじゃないわい! これを見ろ! わしの刑事人生……いや、わしの『頭髪という名の聖域』が、恐怖で逆立って……いや、逆立つ土台がないから心だけが逆立っとるわい!」
桂が指差した先には、一人の男が横たわっていた。村の若者の一人だ。しかし、その遺体は異様極まりなかった。
衣服を剥ぎ取られたその体は、まるでガラス細工のように透き通り、内部の心臓、肺、腸といった臓器が、生々しく、鮮明に「見えて」いたのである。
「ヒィィッ! 内臓が丸見えだ! 倫理的にも物理学的にも、透視の限界を超えている!」志村が情けなく叫び、奈美子の後ろに隠れた。
村人たちは地面に伏せ、祈祷師・古門の名を唱え始めた。
「神の……神の御業だ! 古代の神々が、罪深き者の皮を剥ぎ、真実を露呈させたのだ! 皮膚という名の欺瞞を取り払ったのだ!」
古門が、影を従えてゆっくりと現れた。
「見たか。これが、我らが崇める古生物の真実の姿だ。現生の脆弱な生物と違い、真理は隠し通せぬのだ」
志村は恐怖を押し殺し、震える声で反論を試みた。
「……フ、フン。デタラメを言うな。これは生物学における保存バイアス(Preservation Bias)、すなわち『硬い骨や殻だけが残りやすく、柔らかい筋肉や内臓といった組織は腐敗して消えてしまうため、化石として残る情報に偏りが生じる現象』を、逆手にとった悪趣味な演出に過ぎん!」
「保存……バイアス……?」桂が、包帯の間から覗く目で志村を見た。
「そうだ。例えば、かの有名なバージェス頁岩、すなわち『カナダのロッキー山脈にある、カンブリア紀の軟組織を含む化石が例外的に良好な状態で保存されている地層』のような特殊な環境では、本来消えてしまうはずの触手や内臓が可視化される。
古代生物が特別に『奇妙』に見えるのは、現生生物では見えない『中身』が保存バイアスを免れて露呈してしまっている、いわば『見えすぎている』せいなのだよ」
志村は、自説を展開するうちに調子を取り戻し、いつもの不遜な態度で古門を指差した。
「つまり、この遺体が透けて見えるのは、神の力などではない! 遺体を強制的にラーゲルシュテッテン、すなわち『保存状態が極めて良好な化石を産出する特別な堆積層』と同じ状態に置くような、何らかの科学的処理を施した結果だ! Why don't you do your best? お前の稚拙なマジックなど、私の物理学的視点の前では丸裸だ!」
「……ならば、この透明な肉体をどう説明する? 物理学者よ」古門が不敵に笑う。
「それは……それは、その……通信教育で習った『空手・第十七奥義・心の眼』で見れば……あ、ナミコ君、あとは任せた。私はちょっと、この現象を数式化するために、安全な場所で瞑想してくる」
志村はそう言うと、光の速さで猿渡の後ろに隠れた。
「結局丸投げか! エヒャヒャヒャ!」
奈美子は溜息をつき、遺体の傍らにしゃがみ込んだ。鼻をつくのは、腐敗臭ではなく、何か懐かしい、都会のマジックショーの舞台裏で嗅ぐような、ツンとした薬品の匂いだ。
「桂さん、猿渡さん。ちょっとそこら辺を調べてみてください。特に、足跡の周りとか」
「わかった……。おい猿渡、わしの『公安のレーダー(カツラセンサー)』が反応する場所を重点的に探せ」
「アニキ! こっちに、何かベタベタしたものが付いてるっす!」
猿渡が見つけたのは、木の枝に引っかかった薄い、透明な膜のようなものだった。奈美子はそれを受け取り、指先で感触を確かめた。
「やっぱり……。これ、マジック用のハイドロゲルシートですよ。水分を大量に含んだ特殊な透明膜です」
「ハイドロゲル……? それがどうして、内臓が見えることと関係あるんじゃ?」桂が尋ねる。
「志村さん、さっき『見えすぎているのが奇妙さの正体』だって言いましたよね。犯人は、遺体の表面をこの高屈折率のゲルで覆い、さらに周囲に鏡を配置したんです。これはマジックでよく使われる屈折率整合、すなわち『物質の屈折率を周囲の液体や物質と一致させることで、境界面での反射を無くし、物体を透明に見せる技術』の応用です」
奈美子は、懐から一枚のコインを取り出し、見事に消してみせた。
「皮膚を剥いだのではありません。特殊な薬剤で皮膚を透明化し、逆に内臓だけが際立つように着色したんです。村人たちに『内臓が見える=異常=神の力』と思い込ませるための、大掛かりな認知バイアスの仕掛けですよ」
> 用語解説:
> 認知バイアス(Cognitive Bias): 個人の先入観や周囲の状況などの要因によって、合理的でない判断を下してしまう心理現象のこと。ここでは「内臓が見える生物=古代の神」という思い込みを指す。
>
「お前のやったことは、全部まるっとお見通しだ!」
奈美子が古門を指差すと、古門の背後の影が一際大きく揺れた。
「ふん……。理屈をこねるのが得意なようだな、女手品師。だが、理屈で説明できたからといって、現実が変わるわけではない」
古門が手を叩くと、遺体の腹部から「カサカサ……」と音が響き、中から本物の、生きたトゲだらけの触手のようなものが這い出してきた。それは遺体の胃を突き破り、のたうち回りながら志村の方へと伸びていく。
「ひいいいぃぃ! 理屈じゃない! 全然理屈じゃないものが這い出てきたぁぁぁ!」
志村は悲鳴を上げながら、通信教育の空手の型で応戦しようとしたが、その場に崩れ落ちて気絶した。
「志村さん! 起きてください! 物理学の意地を見せ……って、もう寝てるし!」
奈美子は周囲を見渡した。古門の周りに集まる村人たちは、もはや理性を失い、狂信的な目つきで彼女たちを囲んでいる。逃げ場はない。
その時、奈美子の懐にある「言霊の書」が、再び熱を帯び始めた。長野で書道を教える母、里子の声が脳裏に直接響いてくる。
『奈美子……。形に惑わされてはダメよ。生物が何者であるか、それはその姿が決めるのではなく、そいつが何を食べてきたか、つまり**食物連鎖**の歴史が決めるのよ……』
「お母様……? 食物連鎖? ……あ、そうか! 志村さん! さっき言ってた和牛、あれ、伏線だったんですよ!」
奈美子は、気絶している志村のポケットを探り、彼が「非常食」として隠し持っていた「最高級和牛ジャーキー」を引っ張り出した。
「これだ! どんといってやりますよ!」
奈美子がそのジャーキーを、這い出てきた触手に向かって投げつけた。すると、猛々しく蠢いていた触手は、ピタリと動きを止め、ジャーキーを奪い合うようにして丸まった。その姿は、神々しい怪物というよりは、ただの「行儀の悪い野良犬」のようであった。
「見たか! これが、お前たちの崇める『五眼の神』の正体だ!」
古門の顔から余裕が消えた。
「な、何を……」
「これ、ただの深海甲殻類の改造生物ですよ。それも、やたらとお腹を空かせた。この村に伝わる『保存バイアス』の伝説を利用して、あんたが作り出したインチキな神様だ!」
奈美子の叫びと共に、村の広場を強烈な風が吹き抜けた。
「ああっ! いかん! 風じゃ、またわしの『公安の機密事項』がぁぁ!」
桂が叫ぶが、今度はその風が、広場の至る所に隠されていた「鏡」を倒し、仕掛けを露呈させていった。
「志村さん! 起きてください! 犯人はあいつです!」
目を覚ました志村は、状況を瞬時に(勝手に)理解し、鼻を高くした。
「フム……。やはり私の予想通りだ。物理学的に見て、この村の『奇妙さ』は、すべて保存バイアスを利用した視覚的トリックに集約される。Why don't you do your best? 古門さん、あなたの『箱』は、私の知性という名のハンマーで粉々に砕かれたのだよ」
しかし、古門は不気味に笑い、闇の中へと消えていった。
「……砕かれたかな? 志村次郎。箱の中身は、まだ一つではないぞ」
村の夜はまだ明けない。奈美子のお腹の虫は、さらなる混沌を予感して、盛大に鳴り響いていた。




