第25章 :桂刑事の失踪と「発生文法」の乱れ
「ひいぃぃぃ! 飛ぶ! 飛んでしまう! わしの公安としての、いや、一人の男としての尊厳が、時速40キロの突風と共に成層圏までサヨナラしてしまうわぁぁ!」
翌朝、古生物村の断崖絶壁。警視庁公安部の桂健一刑事は、荒れ狂う風の中で、必死に頭頂部を両手で押さえつけていた。その姿は、まるで未確認飛行物体が脳天から離陸するのを阻止しようとする必死の地上管制官のようであった。
「アニキ! 大丈夫っす! わしが、わしが全身でアニキの『奇跡のベール』をガードするっす!」
金髪の部下、猿渡辰が桂に抱きつき、風除けになろうとする。しかし、その必死の抱擁が仇となった。猿渡の指が桂の「公安の機密事項」の端に引っかかり、ズレた。
「あ、アニキ……なんか、アニキの右耳の上から、見たことない色の地肌が……」
「バカ言え! それは日焼けじゃ! 公安の過酷な任務で、右耳の上だけがピンポイントで日焼けしたんじゃ……って、あああああ!」
凄まじい一陣の風が吹き抜ける。桂の頭上から「カパッ」という乾いた音が響いたかと思うと、黒い物体がカラスのように宙を舞った。
「ああっ! わしの誇りが! 待てぇぇ、どこへ行くんじゃぁぁ!」
桂は理性を失い、崖の縁を飛び出した。
「アニキィィィ!」
後を追う猿渡。二人の体は、霧の深い谷底へと吸い込まれていった。
その頃、宿の周辺で「和牛の死体(という名の霜降り肉)」を求めて彷徨っていた山田奈美子と志村次郎は、崖の上から響く悲鳴を耳にしていた。
「……志村さん、今、何か『公安の誇り』がどうのこうのって悲鳴が聞こえませんでしたか?」
「フン、風のいたずらだろう。あるいは、この村の磁場が狂っているせいかもしれん。私の物理学的直感によれば、この村の重力定数は、平均より0.000001%ほど……」
「いいから探しに行きましょうよ。桂さんが死んだら、誰が私の家賃を立て替えてくれるんですか(※立て替える約束はしていない)」
二人が崖に駆けつけると、そこには桂のトレードマークである「安っぽい帽子」だけが、無惨にも岩に引っかかっていた。
「……なんてことだ。桂君、君はついに、隠しきれない真実を風に預けて、自らも重力という名の真理に身を委ねたのか」
志村は神妙な顔で十字を切ったが、奈美子は崖下へと続く「奇妙な足跡」に気づいた。
「志村さん、見てください。これ、桂さんたちの靴跡じゃありませんよ。何か……トゲのようなものが突き刺さった跡です。昨日の夜、私が見た怪物と同じです」
二人は意を決して(志村は奈美子の後ろに隠れながら)、崖下の斜面を降りていった。霧を抜けた先には、村の地図には載っていない巨大な洞窟の入り口が口を開けていた。
「逆さまの神」の化石
洞窟の中は、ひんやりとした湿った空気に包まれていた。志村は自著『どんと来い、超常現象』を懐から取り出し、懐中電灯代わりに照らしながら進む。
「……ナミコ君、見てみたまえ。この岩肌だ」
志村が指差した壁面には、無数の化石が露出していた。しかし、その形は異常だった。
それは、昨日奈美子が見たハルキゲニアに似ていたが、もっと支離滅裂な姿をしていた。
「何ですかこれ。足が背中から生えていたり、目が腹側についていたり……。これじゃ、どっちが上でどっちが下か、さっぱり分かりませんよ」
「これこそが、進化の初期段階における発生拘束(Developmental Constraint)、すなわち『発生のプロセスにおいて、ある変化が別の部位に致命的な影響を与えるため、進化の方向が制限されること』がまだ成立していなかった証拠だ」
志村は、壊れかけた眼鏡をクイと押し上げた。
「現代の生物は、Hox遺伝子(Hox Genes)、つまり『動物の体の前後軸に沿って、どの部位にどの器官を作るかを決定する、司令塔のような遺伝子群』によって厳密に管理されている。頭には目があり、腹には足がある。このルールを破るような変異は、現代では致死的なエラーとして排除されるのだ」
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「でも、ここの化石は……」
「そうだ。カンブリア紀の初期、生命の設計図である動物体制(Body Plan)、すなわち『門ごとに決まっている、基本的な体の構造のデザイン案』は、まだ書きかけのラフスケッチの状態だったのだ。
当時は、この司令塔である遺伝子ネットワークがまだ固定されておらず、発生の文法がメチャクチャだった。
そのため、五つの目を持ったり、上下が逆転したような『奇妙すぎる形』が、エラーとして処理されずに実在し得たのだよ」
「つまり……この村の『五眼の神』や『逆さまの怪物』は、まだ校閲が入る前のデタラメな下書きってことですか?」
「その通り。これは未固定の発生文法による産物だ。我々現代人がこれを見て『奇妙だ』と感じるのは、我々がすでに洗練されすぎた、完成度の高い物語の中に生きているからに過ぎない」
物理学者のパニック
洞窟の奥から、「ギィィィィ……」という、金属が擦れるような音が響いてきた。
「ひいっ! 出た! 未固定の文法が出た!」
志村は奈美子の背中に飛びついた。
「離してくださいよ! 暑苦しい! 物理学の権威が何やってるんですか」
暗闇から現れたのは、怪物ではなく、ボロボロになった桂刑事と猿渡だった。桂は、なぜか自分のジャケットを頭に深く被り、不審者のような格好をしていた。
「お、おい……山田……志村か……。助けてくれ……わしは、わしは見てしもうたんじゃ……」
「桂さん! その頭……じゃなくて、無事だったんですね」
「無事なもんか! あそこで……あそこの地層の隙間で、わしの大事な『機密事項』を拾おうとしたら、地中から『何か』がわしの手を掴んだんじゃ!」
桂が指差した先。そこには、地層から半分突き出た「巨大な腕」があった。
しかし、その腕は関節が逆に曲がり、指の先から目が飛び出しているという、正視に耐えない形態をしていた。
「な、なんだこれは……。これは化石じゃない、生肉だ! 生きた組織が、この異様な形で維持されているというのか!?」
志村は絶叫した。彼の合理主義的な脳内回路が、オーバーヒートを起こして火花を散らしている。
「ありえん! 現代の地球環境で、これほど運河化(Canalization)、すなわち『発生プロセスが強固に固定され、多少の遺伝的変異があっても、常に同じ形態が作られるようになる現象』を無視した生物が存在できるはずがない!」
志村は狂ったように自著のページを捲り始めた。
「なぜだ! なぜ私の物理法則に従わない! Why don't you follow the rules!?」
「志村さん、落ち着いてください。物理学者のくせに、生物の不思議にパニックになってどうするんですか。エヒャヒャヒャ!」
「笑い事か! いいか、ナミコ君。これは発生の拘束が外れているのではない。何者かが、意図的に『発生の文法』を破壊し、再構築している可能性があるのだ!」
その時、洞窟の壁にかけられた古い松明に、火が灯った。
「その通り……。知恵ある者は、恐れるべきものを正しく恐れるのだな」
現れたのは、村の祈祷師、古門であった。彼の背後には、昨日奈美子が見た「ハルキゲニア」のような影が、複数、蠢いている。
「ここは、進化の袋小路ではない。新たな、そして唯一無二の進化を実験する『ゆりかご』なのだ。お前たちのような『完成された、退屈な形』しか持たぬ者には、この多様性の美しさは理解できまい」
「実験……? 桂さん、これって密輸どころか、マッドサイエンティストの隠れ家じゃないですか!」
奈美子が叫ぶ。
「密輸でも何でもええ! わしのブツ(カツラ)を返せ! あの化け物がわしのブツを掴んだまま、地中に消えたんじゃぁぁ!」
桂はもはや、生命の危機よりも毛髪の危機に全神経を集中させていた。
「志村次郎よ。お前のその、凝り固まった『物理という名の発生拘束』を、我が神が解き放ってやろう。……連れて行け!」
古門が命じると、壁から「逆さまの腕」が次々と突き出し、志村と奈美子を捕らえようとする。
「ナ、ナミコ君! 私のことはいいから、君のその貧相な体を使って、なんとか隙間から逃げろ! 私はここで、通信教育で習った『空手・第十二奥義・死んだふり』を披露する!」
「最低だ! どんといってやるんじゃなかったんですか!」
絶体絶命の瞬間。奈美子のポケットの中で、長野の母・里子から届いた「言霊の書」が、怪しく光り始めた。




