第23章 家賃滞納と「五眼の神」からの招待状
東京の片隅、築年数不明のボロアパート『池田荘』。その一室で、自称・超実力派天才マジシャンの山田奈美子は、人生最大の危機に直面していた。
「山田さん! 山田奈美子さん! いらっしゃるんでしょ! 開けなさい!」
戸を叩く激しい音。大家の銭村カネの声だ。奈美子は息を殺し、万年床の中で芋虫のように丸まっていた。空腹が鳴らす腹の虫すら、今は命取りになる。
「……いない。私は今、マリアナ海溝の底でマジックの修行中だ……」
蚊の鳴くような声で呟く奈美子の横では、隣人のジャミールが窓の外から身を乗り出し、「ヤマダサン、ヤチン、ハライナサーイ。ジャミール、オカネ、ナイヨ」と、カタコトの日本語で無慈悲な追い打ちをかけてくる。
奈美子の手元には、昨日から煮続けて原型を留めていない一本のうどん。これが彼女の全財産であり、全栄養素だった。マジシャンとしての腕は確かなはずなのだが、彼女が披露する「帽子からハトが出る(ただしハトが逃げ出して戻ってこない)」といった地味な芸は、現代の刺激に慣れきった観客には全く響かない。
そこへ、アパート全体を揺らすような爆音と共に、一台の車が乗り付けてきた。
屋根がなく、ドアの片方がガムテープで固定されたボロ車――通称「次郎号」だ。
「ナミコ君! いるんだろう! 私だ、日本科学技術大学物理学教授、志村次郎だ!」
威風堂々とした(しかしどこか滑稽な)声が響く。奈美子は「げっ、変態教授……」と顔を顰めながらも、カネの追及から逃れるチャンスと見て、勢いよくドアを開けた。
「志村さん! 助けてください、この鬼大家に命を狙われて……!」
「誰が鬼よ! 溜まった家賃三ヶ月分、耳を揃えて払いなさい!」
志村は、愛著『どんと来い、超常現象』を懐から取り出し、胸を張った。
「銭村さん、彼女の家賃なら心配いらん。今から彼女は、私の助手として、国家的、いや地球規模のミステリーを解明しに行くのだ。報酬は、私のポケットマネーから……いや、依頼主からたっぷり出る!」
「……本当でしょうね?」カネが疑いの眼差しを向ける。
「物理学的に見て、私の言葉に嘘はない。なぜなら、私の『ビッグ・マグナム』がそう言っているからだ!」
志村がいつもの卑猥なジョークを飛ばすと、奈美子は「エヒャヒャヒャ! 相変わらずデカいのは態度だけですね」と独特の笑い声を上げた。
「五眼の神」の招待状
志村の車に押し込められた奈美子は、空腹に耐えながら、彼が持ってきた一通の古びた手紙を読まされていた。
「『古生物村』……? 何ですか、このふざけた名前の村は」
「長野県の山奥にある、化石発掘で生計を立てている村だ。そこには古くから『五つの目を持つ神』が祀られており、その神が最近、村に災いをもたらしているというのだ」
手紙の主は村長を名乗る男で、村に伝わる異形の神の正体を、科学的に解明してほしいと記されていた。
「五つの目? そんなの、マジックの仕掛けか、ただの奇形でしょう」
「ナミコ君、君は浅はかだ。古代の生物、特にカンブリア紀前後の生命体には、現代の常識では測れない『奇妙すぎる形』をしたものが実在したのだ」
志村はハンドルを握りながら、したり顔で語り始めた。
「いいか、進化というものは最初から『洗練』を目指して進むわけではない。それは**『非目的論的』**なプロセスなのだ」
> 用語解説:
> 目的論的: 物事の存在や変化を、その後の「目的」や「ゴール」から説明しようとする考え方のこと。 進化においては「人間になるために進化した」といった考え方を指すが、実際には進化にゴールは存在しない。
>
「進化は、その場その場での『局所最適化』を繰り返すだけで、将来的に有利になる形を予測して作るわけではないのだよ」
「難しい話はいいから、食べ物の話をしてください。和牛食べ放題って本当ですか?」
「ああ、村長が約束してくれた。A5ランクの和牛が、君の貧相な胸が少しは膨らむほど食べられるぞ」
「誰が貧乳だ! どんといってやりますよ!」
適応度地形という迷宮
車は山道を激しく揺れながら進む。奈美子は酔いと空腹で意識が朦朧としていたが、志村の講釈は止まらない。
「なぜ古代生物が奇妙なのか。それは、彼らが**『適応度地形』における『粗探索』**の時期にいたからだ」
> 用語解説:
> 適応度地形(Fitness Landscape): どの生物学的性質が生存に有利か、山(高い適応度)と谷(低い適応度)の高低差で表現した仮想的な地図のこと。 生物はより高い山(生き残りやすい形)を目指して変化していく。
> 粗探索(Coarse Search): 最適解(山の頂上)が見つかっていない初期段階で、細かい修正ではなく、大胆かつ多様なパターンを試行すること。
>
「初期の多細胞動物が直面したのは、まだ誰も登ったことのない広大な山脈だった。そこでは、どんな形が正解か分からない。だから進化は、とりあえず思いつく限りのデタラメな形を試したのだ」
「デタラメ……まるで、志村さんの大学の講義みたいですね」
「失礼な! 私の講義は常に論理的だ。だが、当時の生物は、遺伝子の制御ネットワークがまだ固定されていなかった。だから、少しの改変が巨大な形態の差を生み出したのだよ」
志村の説明によれば、この段階では「一時的に機能するが、長期的には不利な構造」も存続し得た。 その結果、現代の我々から見れば「設計意図が読めない」ほど奇妙な、五つの目を持つオパビニアのような怪物が生まれたという。
「つまり、その村の『五眼の神』というのは、大昔のデタラメな進化の生き残り……あるいは、それを模したインチキだということですね」
奈美子は、カバンの中からトランプを取り出し、指先で器用に弄んだ。
「お前のやったことは、全部まるっとお見通しだ……。そう言って、村長から和牛をふんだくってやりましょう」
「フフフ、頼もしいな。だがナミコ君、気絶するなよ。その村には、物理学では説明できない……いや、説明したくないほど不気味な噂があるのだからな」
志村の顔が少しだけ青ざめた。彼は徹底的な合理主義者を装っているが、実は誰よりも臆病であることを、奈美子は知っていた。
村への到着と、不穏な影
数時間のドライブの末、二人は「古生物村」の入り口に辿り着いた。
村の入り口には、巨大な岩を削って作られた、異様なモニュメントが鎮座していた。
それは、長いノズル状の口を持ち、頭部に五つの突き出た目を持つ生物の像だった。
「……オパビニアだ」志村が呟く。
村は霧に包まれ、人影はない。ただ、どこからか「ギィ……ギィ……」と、何かが軋む音が聞こえてくる。
「志村さん、これ、本当に和牛ありますかね? なんだか、私たちが和牛として出荷されそうな雰囲気ですけど」
「バカなことを言うな。私の『通信教育で習った空手』があれば、どんな化け物もイチコロだ」
志村は震える手で次郎号のドアを開けようとしたが、ドアはそのまま地面に脱落した。
その時。
村の奥から、複数の村人たちが、例の「五つの目」を模した不気味な仮面を被って現れた。彼らは奇怪なリズムで足を引きずりながら、二人を囲むように近づいてくる。
「何だ、この歓迎セレモニーは……」
志村が後ずさりしたその時、村人たちの間から、一人の老婆が姿を現した。
「よくぞ参られた、偽りの知恵を持つ者たちよ。ここは、洗練を拒絶した神の庭……」
奈美子は空腹のあまり、老婆が持っている杖の先が大きなフランクフルトに見えていた。
「おばあさん、それ、一口くれませんか?」
「ええい、話を聞け!」
老婆が叫んだ瞬間、村を強い風が吹き抜けた。
その風に乗って、遠くから聞き覚えのある、偽物臭い広島弁が聞こえてきた。
「おい、猿渡! 飛ぶ! 飛んでしまうわしの大事な誇りが!」
「アニキ! 大丈夫っす、接着剤で固めてあるっす!」
奈美子と志村は顔を見合わせた。
「この声は……桂刑事?」
物語は、この「奇妙すぎる形」を崇める村で、科学とマジック、そして「頭髪の秘密」を巻き込んだ、混沌の渦へと飲み込まれていく。




