第22章 :最後の晩餐と沈黙のトンボ
(真っ暗な背景の中、スポットライトを浴びた古川新三郎が立っている。彼は手に、一匹の小さな、現代のトンボの標本を持っている。それを愛おしそうに見つめ、やがて静かに語りかける)
「えー……物語には必ず終わりがあります。
三億年前の栄華も、一人の男の野望も。
巨大な羽を広げ、空の王者として君臨した彼らが、
なぜ静かに歴史の舞台から降りていったのか。
それは、世界が変わることを拒んだからかもしれません。
あるいは、変わっていく世界に、
自分たちを合わせることができなかったからか……。
……人間も、同じです。
引き際を誤ると、守りたかったはずの夢が、
自分を絞め殺す縄に変わってしまう。
……さて、泉くんがパフェを三つも食べてお腹を壊したところで、
この事件も終わりにしましょうか。
古川新三郎でした」
深夜二時。国立古生物復元研究所の「炭素の檻」は、月明かりと非常用照明の青白い光に照らされ、まるで異世界の神殿のような静謐さに包まれていた。
古川新三郎は、シミュレーターの分厚い強化ガラスの前に一人、立っていた。
「……遅いですよ、羽賀さん。待ちくたびれて、少し眠ってしまいました」
暗闇から、ゆっくりと白衣の男が歩み寄ってきた。羽賀准教授である。その顔には、隠しきれない疲労と、何かに取り憑かれたような狂気が宿っていた。
「古川さん。こんな時間に呼び出して、何の真似です。私は明日のフェノタイプ、すなわち表現型(遺伝子と環境の相互作用によって、生物の体格や性質として実際に現れた特徴のこと)の最終確認で忙しいんだ」
「確認……。それは、誰のための確認ですか?」
古川はゆっくりと振り返った。その手には、西園寺が分析を終えた一枚のレポートがあった。
「羽賀さん。巨摩教授は亡くなる直前、ある重大な決断を下していました。この『巨大昆虫復元プロジェクト』の中止です。……違いますか?」
羽賀の眉が跳ね上がった。
「中止だと? 馬鹿なことを。私たちは歴史を塗り替える一歩手前まで来ているんだ」
「いいえ。教授は悟ったんですよ。……いくら酸素濃度を上げ、石炭紀の環境を再現したところで、現代の地球で彼らが生き残ることは不可能だと。……それは、バイオメカニクス、すなわち生体力学(生物の構造や運動を、力学的な法則に基づいて解析する学問)が導き出した、残酷な結論でした」
古川は一歩、羽賀に近づいた。
「教授の遺した未発表の論文を読みましたよ。そこには、巨大昆虫のターミナル・ベロシティ、すなわち終末速度(物体が落下する際、空気抵抗と重力が釣り合って、それ以上加速しなくなる一定の速度のこと)の問題が記されていました。……体が大きくなればなるほど、不慮の落下や脱皮の際の衝撃が、外骨格を容易に破壊してしまう。今の重力と大気密度では、彼らは自分自身の重さに耐えきれず、自壊する運命にある……。教授は、このプロジェクトを『生命への冒涜』だと呼び、全データを破棄しようとした。……あなたは、それが許せなかった」
「……教授は臆病になったんだ!」
羽賀が叫んだ。
「彼は、自分の築き上げた理論が、物理法則という壁にぶつかった途端、逃げ出したんだ! 私は、彼らが再び空を舞う姿を、世界に見せつけたかった!」
「そのために、教授を消した……。あなたが仕掛けたのは、単なる殺人ではありません。……アポトーシス、すなわちプログラミングされた細胞死(個体をより良い状態に保つために、特定の細胞が自ら死を選ぶように仕組まれた現象)のように、教授をシステムの一部として、静かに排除した。……高酸素の波を使ってね」
羽賀は冷笑を浮かべた。
「証拠は? 昨夜言った通り、空気の証拠なんてどこにもない」
「ええ、空気の証拠はありません。……ですが、あなたの『体』の中に残っていました」
古川は、ポケットから小さな、飲みかけの薬の瓶を取り出した。
「これは、花田さんが給湯室のゴミ箱から見つけてくれたものです。……エダラボンを主成分とする、強力なラジカルスカベンジャー、すなわちフリーラジカル除去剤(活性酸素などの反応性の高い分子を捉え、無害化することで細胞の損傷を防ぐ薬剤)ですね」
羽賀の顔から血の気が引いた。
「あなたは、教授を高酸素の毒で殺すために、自分自身もその毒にさらされる必要があった。……装置の調整や、死体の確認のために、あなたもあの35%の酸素の中に、長時間留まらなければならなかった。……普通の人間なら、オキシゲン・トキシシティ、すなわち酸素中毒(高濃度の酸素を吸入することで、肺や中枢神経系に障害が起きる状態)で倒れてしまう。……でも、あなただけは平気だった。……この薬を、過剰なまでに服用していたからです」
「それは……私の持病の……」
「言い訳は無用です。この瓶から、あなたの指紋と、そして巨摩教授が使っていた吸入器の成分と同じ、微量の化学物質が検出されました。……あなたが吸入器に細工をした際、手に付着したものが瓶に移った。……皮肉なものですねぇ。自分を救うための薬が、あなたを追い詰める最後の手がかりになるとは」
静寂が二人を包み込んだ。
ガラスの向こうでは、一匹の巨大なメガネウラが、羽ばたきを止め、シダの葉の上で動かなくなっていた。
「……見てください、羽賀さん。彼もまた、終わりを悟ったようです」
羽賀は力なく、ガラスに額を押し当てた。
「……私はただ、美しすぎる夢を、現実に留めておきたかっただけなんだ。……三億年前の、あの完璧な空を……」
「……その夢は、あまりにも重すぎたんですよ。……人間一人の肩に載せるには」
廊下から、泉進次郎と西園寺守、そして向島巡査が足音を立ててやってきた。
「古川さん、確保しました」
西園寺が静かに告げる。
「羽賀先生……残念です。あんなに優しかった先生が……」
向島が悲しげに目を伏せた。
泉は、そんな重苦しい空気を察してか、珍しく神妙な面持ちで羽賀の横に立った。
「……先生。僕、虫は嫌いですけど、あなたの熱意は、嫌いじゃなかったですよ。……ただ、やり方が、ちょっと……空気が読めなさすぎましたね」
古川は泉のおでこを、今日一番優しく、そっと叩いた。
「……行きましょうか」
羽賀は抵抗することなく、連行されていった。
独り残された古川は、シミュレーターのスイッチを切った。
照明が消え、35%の酸素供給が止まる。
三億年前の幻が、ゆっくりと、現代の闇の中に溶けて消えていった。
研究所の外に出ると、東の空がわずかに白み始めていた。
古川は、愛車のセリーヌに跨り、大きく伸びをした。
「古川さーん! 置いてかないでくださいよ!」
後ろから泉が走ってくる。
「泉くん。今回の事件で、何か学んだことはありますか?」
「えーと……そうですね。酸素は吸いすぎちゃいけない、ってことですかね。あと、リンゴは新鮮なうちに食べる!」
「……西園寺くん。彼に、もう少しマシな教育をお願いします」
「努力します、古川さん」
三人は、朝日が差し込み始めた坂道を、ゆっくりと下っていった。
巨大昆虫がなぜ消えたのか。
それは、自然という名の、あまりに公平で、あまりに冷酷な裁判官が下した判決だったのかもしれない。
「……さて、朝ごはんに行きましょうか。……西園寺くん、美味しいトーストが食べられる店、知ってますか?」
「はい。研究所の近くに、オーガニック(化学肥料や農薬に頼らず、自然の恵みを活かした農法や製品のこと)なパン屋があります」
「……んー、いいですねぇ。……自然が一番です。……古川新三郎でした」
(第七章・完)




