第21章 活性酸素
真っ暗な背景の中、スポットライトを浴びた古川新三郎が立っている。彼の前には、半分に切られたリンゴが二つ。一つは白く、もう一つは無残に茶色く変色している。古川は茶色い方を指差し、静かに語り始める)
「えー……『過ぎたるは猶及ばざるが如し』。
この言葉を作った人は、実に賢い。
呼吸に不可欠な酸素も、多すぎれば毒になります。
これを『酸素中毒』と言います。
美しさも、才能も、そして……情熱も。
度を超すと、自分自身を焼き尽くしてしまう。
かつて巨大昆虫たちは、高濃度の酸素という『祝福』を浴びて巨大化しました。
しかし同時に、彼らの体の中では、目に見えない火が燃え盛っていた。
……そういえば、私の部下の泉くんは、
健康のためにとビタミン剤を一日百粒飲んで、
逆に体調を崩して入院しました。
……何事も、ほどほどが一番です。
古川新三郎でした」
事件発生から三日。警視庁捜査一課の古川新三郎は、国立古生物復元研究所の休憩室で、一人じっと「リンゴ」を見つめていた。
そこへ、泉進次郎が、相変わらず落ち着きのない様子で入ってきた。
「古川さん、まだそんなところにいたんですか。西園寺くんはもう、羽賀准教授の昨夜のパソコンのアクセス履歴を全部洗い終えましたよ。……あ、そのリンゴ、食べていいんですか? 朝から何も食べてなくて、お腹空いちゃって」
「いいですよ、泉くん。どうぞ」
「いただきます! ……うわっ、なんだこれ! 苦っ! 変な味がする!」
一口かじった泉は、すぐにリンゴを吐き出した。
「どうしました?」
「どうしましたもこうしましたもないですよ! このリンゴ、見た目は普通なのに、中が妙にスカスカっていうか……鉄錆みたいな味がします! 古川さん、これ腐ってるんじゃないですか?」
古川の目が、鋭く光った。
「鉄錆の味、ですか。……西園寺くん!」
「はい、古川さん」
隣の部屋で作業していた西園寺守が、即座に姿を現した。
「このリンゴ、至急メタボローム解析、すなわち網羅的代謝物解析(細胞内の代謝物質を網羅的に測定し、生体内で起きている化学反応の変化を調べること)に回してください。特に、リピッド・パーオキシデーション、すなわち脂質過酸化(活性酸素によって体内の脂質が酸化され、細胞にダメージを与える反応)の痕跡を重点的に」
「了解しました」
泉は口をゆすぎながら、恨めしそうに古川を見た。
「古川さん……僕を実験台にしましたね?」
「実験台だなんて。……泉くん、君のその敏感な味覚が、事件を解く鍵になったんですよ」
古川は泉の肩を優しく叩き、そのまま羽賀のいるシミュレーター室へと向かった。
シミュレーター室の前では、羽賀が巨大トンボのケージを掃除していた。古川は、防護ガラス越しに中の巨大なシダ植物を眺めた。
「羽賀さん。この部屋の中にある植物や果物、ずいぶん傷むのが早いと思いませんか?」
羽賀は手を止めずに答えた。
「……ここは石炭紀を再現した環境です。高温多湿ですから、有機物が分解される速度が速いのは当然でしょう」
「いいえ。単なる腐敗ではありません。……この部屋の空気には、何か『攻撃的なもの』が混じっている。……羽賀さん、あなたはROS、すなわち活性酸素(酸素分子がより反応性の高い状態に変化したもので、細胞内のタンパク質やDNAを傷つける物質)の専門家でもありましたね」
羽賀の背中が一瞬、強張った。
「……古川さん。高酸素環境、すなわちハイパーオキシアの下では、活性酸素が発生しやすくなるのは生物学の常識です。石炭紀の巨大昆虫たちも、その毒性と戦いながら巨大化した。彼らは強力なアントキシダント・ディフェンス、すなわち抗酸化防御システム(活性酸素を中和し、細胞のダメージを防ぐ生体内の仕組み)を発達させていたと考えられています」
「では、人間はどうですか? 人間が35%の酸素を吸い続けると、どうなるんでしょう」
「……短期間なら問題ありません。しかし長期的には、オキシダティブ・ストレス、すなわち酸化ストレス(活性酸素の産生が抗酸化能力を上回り、生体がダメージを受けている状態)が蓄積します。特に肺や心臓には大きな負担がかかる。……巨摩教授の心不全も、その結果ですよ」
古川はゆっくりと羽賀に近づいた。
「……それだけでしょうか。教授が亡くなった夜、この部屋の酸素濃度は、ただ35%だったわけじゃない。……羽賀さん、あなたはあの日、マスフローコントローラーを使って、酸素濃度を意図的に『上下』させた。……それも、非常に短いサイクルで」
「……何を証拠に」
「フリッカー現象ですよ」
古川は西園寺が持ってきたデータを指し示した。
「酸素濃度を一定に保たず、急激な変動を繰り返すと、生体はリパーフュージョン・インジュリー、すなわち再灌流障害(血流が止まった後に再び流れる際、一気に発生する活性酸素によって組織がより深刻なダメージを受ける現象)に似た状態に陥る。……あなたは、空気そのものを『波』のように動かすことで、教授の心臓の中に、大量の活性酸素を撃ち込んだ」
羽賀は黙り込んだ。巨大トンボの羽音が、室内に不気味に響く。
「……さらに、あなたは教授の吸入器に、微量のハイドロジェン・パーオキサイド、すなわち過酸化水素(強力な酸化力を持ち、消毒剤などにも使われる活性酸素の一種)を混入させた。……高酸素の空気と、この過酸化水素が体内で混ざり合った時、教授の肺の中では、文字通りの『火災』が起きた。……彼は外側からは分からなくても、内側からボロボロに焼き切られていたんです」
「……古川さん。それはあなたの想像に過ぎない」
羽賀は震える声で言った。
「いいえ。証拠は、泉くんが食べたあのリンゴです。あのリンゴは、あなたが仕掛けた『空気の波』の直撃を受け、異常な速度で酸化していた。……そしてもう一つ。向島巡査に渡した酸素缶。あれの中身も、純粋な酸素ではなく、酸化を促進する特殊な混合ガスだった。……向島くんが倒れたのは、あなたが彼を『口封じ』しようとしたからだ」
「……っ!」
「巨大昆虫は、酸素が減ったから滅びたのではない。……過剰な酸素による『毒』を克服できず、環境の変化に対応しきれなくなったからだ。……羽賀さん。あなたは教授という『旧時代の象徴』を、ご自分の理論という『新時代の毒』で葬り去った。……違いますか?」
羽賀は、膝から崩れ落ちるようにして、シミュレーターのガラスに手をついた。
その向こう側では、巨大なメガネウラが、獲物を狙うようにこちらを見つめていた。
「……残念ですよ、羽賀さん。あなたの知識は、生命を蘇らせるためではなく、生命を消すために使われてしまった。……古川新三郎でした」
(第六章・完)




