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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン23

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第 206 章 第5章 沈黙の進水


1. 摩擦係数 \mu の魔術

1940年(昭和15年)8月8日。真夏の呉。

気温30度を超える猛暑の中、第4船渠の底はサウナのような蒸気に包まれていた。

「気温が高い。獣脂タローが溶け出しているぞ! ドライアイスを追加しろ!」

現場監督の声が飛ぶ。

進水台スリップウェイと船体の間には、潤滑剤として大量の「獣脂」と「カリウム石鹸」の混合物が塗られている。

この混合比率こそが、進水の成否を握る鍵だった。

* 滑りすぎれば: 船は加速しすぎ、海に突っ込んで対岸に激突するか、制動索を引きちぎる。

* 滑らなければ: 船は途中で止まってしまう(これを「死に体」と呼ぶ)。一度止まった数万トンの鉄塊を再始動させることは、物理的にほぼ不可能だ。ドックを解体するしかなくなる。

「摩擦係数は計算通り0.02以下を維持できています」

牧野茂は、温度計とストップウォッチを片手に報告した。

船体重量(進水重量)は約3万トン。

この巨大なポテンシャルエネルギーを、コントロールされた運動エネルギーへと変換しなければならない。


2. 音のない儀式

午前8時。

進水台の周囲には、ごく少数の関係者だけが集まっていた。

貴賓席には、昭和天皇の名代として伏見宮博恭王ふしみのみや ひろやすおう軍令部総長の姿があったが、軍服ではなく平服に近い略装だった。

通常、戦艦の進水式といえば、軍楽隊が『軍艦マーチ』を奏で、くす玉が割れ、数千羽の鳩が放たれ、工員と市民が「万歳」を叫ぶ、国を挙げての祝祭だ。

だが、今日は違った。

「音を出すな。声も出すな」

それが厳命だった。

万歳三唱は禁止。拍手さえも控えめに。

サイレンの吹鳴もなし。

ただ、神職による祝詞の奏上だけが、シュロの簾の中に微かに響いた。

「こんなに静かな進水式は初めてです」

牧野が囁くと、隣に立つ福田啓二は無表情のまま答えた。

「我々が作っているのは、見世物ではない。兵器だ。機能すればそれでいい」

その言葉とは裏腹に、福田の握りしめた拳は白くなっていた。


3. トリガー解放

午前8時30分。

潮位は満潮。浮力の助けを最大に借りられる刻限。

「進水準備よし」

支綱切断トリガー・リリースの合図が出る。

西尾工廠長が銀の斧を振り下ろす――ふりをした。

実際には、電気スイッチが押され、船体を縛り付けていた最後の油圧留めトリガーが解放された。

「……動いた!」

ズズズ……という地響きと共に、3万トンの巨体が動き出す。

初動はゆっくりと。しかし、重力の加速度に従って、指数関数的に速度が増していく。

「轟ッ!」

木製の盤木と滑走台が擦れ合い、摩擦熱で獣脂が焼け焦げ、凄まじい白煙が上がる。

それはまるで、巨獣が初めて呼吸をしたかのような排気ガスに見えた。


4. 制動の物理学

船は時速約20ノット(約37km/h)まで加速し、海面へ突入する。

最大の危機はここにある。**「制動ブレーキング」**だ。

呉の港は狭い。そのまま滑れば、対岸の江田島まで届いてしまうかもしれない。かといって急ブレーキをかければ、船体がちぎれる。

「第1制動索、展張!」

船体の左右には、巨大な鉄の鎖のチェーン・ケーブルが何重にも繋がれていた。

船が動くにつれて、この鎖の束が次々と引きずり出されていく。

* 最初は軽い抵抗で。

* 距離が進むにつれて、より重い鎖が引きずられ、抵抗が増していく。

「ガガガガガッ!」

鎖が地面を削る音が、進水式唯一の「轟音」として響き渡る。

運動エネルギー E = \frac{1}{2}mv^2 が、鎖との摩擦熱と音響エネルギーに変換され、船の速度を殺していく。

牧野は祈るようにその光景を見つめた。

計算では、海に入ってから500メートルで止まるはずだ。

400メートル……450メートル……。

巨大な波紋を広げながら、大和はゆっくりと、しかし確実に減速した。


5. 浮体の安定

そして、静寂が戻った。

海上に浮かんだ「第一号艦」。

その喫水線(水に浸かっているライン)は、福田たちが計算した設計値とミリ単位で一致していた。

「浮きました。……傾き、なし」

技術員の声が震えている。

復原力(GM値)は正常。トップヘビーによる転覆の兆候もない。

あの幅広の船体と、奇妙な球状艦首は、水に入ってしまえばただの「巨大なゆりかご」のように安定していた。

くす玉が割れた。

中から飛び出したのは、鳩ではなく、赤と白の紙吹雪だけだった。それも、風に乗って工廠の外へ飛ばないよう、すぐに回収された。

「終わったな」

福田が息を吐き出した。

万歳のかわりに、技術者たちは互いに無言で頷き合った。

目元を拭う者もいた。

自分たちが作り上げたものが、物理法則に裏切られなかったことへの安堵。

エンジニアにとって、これ以上の報酬はなかった。

しかし、感傷に浸る時間はなかった。

「すぐにドックへ戻せ! 艤装ぎそう工事だ!」

海に浮かんだ船体は、すぐにタグボートによって別の岸壁へと曳航されていく。

ここから、エンジンを積み、大砲を積み、居住区を作る「艤装」という名の、さらに緻密なパズルが始まるのだ。

(第5章 完)


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