第 203章 第11章 腔内圧力カーブ
東野園萌乃
「先生、330kgです」
雑賀壮平
「……なんだい、その数字は。君の家の新しい冷蔵庫の重量か?」
東野園萌乃
「違いますよ。戦艦『大和』の46cm主砲、その一発を撃ち出すための装薬量です。六つの絹袋に入った無煙火薬の総重量。これだけの火薬が一瞬で燃える時の『腔内圧力カーブ』について、今日は先生に解説していただこうと思って」
雑賀壮平
「やれやれ……。君は本当に、女の子が興味を持つべき対象の『定義』をことごとく破壊していくな。なぜそのカーブが知りたい?」
東野園萌乃
「不思議だからです。330kgもの爆薬が密閉空間で爆発したら、普通は砲身ごと吹き飛びますよね? でも、実際には砲弾だけが綺麗に飛び出していく。その境界線には、凄まじい物理のバランスがあるはずです」
雑賀壮平
「まず訂正だ。厳密には『爆発(Explosion)』ではないし、ましてや『爆轟(Detonation)』でもない。あれは『爆燃(Deflagration)』だ。音速を超えない燃焼波による反応だね。もし330kgが爆轟を起こせば、君の言う通り、乗員を含めて艦全体が悲惨なことになる」
東野園萌乃
「爆燃……。つまり、ものすごく速く燃えているだけ、ということですか?」
雑賀壮平
「そうだ。だが、ただ燃えるだけじゃない。制御されているんだ。内部弾道学(Internal Ballistics)の基本方程式は知っているかい?」
東野園萌乃
「いえ、詳しくは。でも、運動方程式なら分かります」
雑賀壮平
「基本は三つの要素の連立だ。
一つ、装薬の燃焼速度則。
二つ、装薬の幾何学的形状によるガス発生率。
三つ、砲弾の運動方程式。
これらが、数ミリ秒という時間の檻の中でせめぎ合う。
まず燃焼速度 r だが、これは圧力 P の関数になる。ヴィエイユの法則(Vieille's law)だ」
東野園萌乃
「式で書くと、r = a P^n ですか?」
雑賀壮平
「ご名答。a は定数、n は圧力指数だ。無煙火薬なら n はほぼ1に近い。つまり、圧力が高くなればなるほど、火薬は激しく燃える。燃えればガスが出て、さらに圧力が高まる。正のフィードバック・ループだ」
東野園萌乃
「それだと、加速度的に圧力が上がって、やっぱり砲身が破裂しませんか?」
雑賀壮平
「そこで砲弾が動くんだよ。ここが内部弾道学の最も美しいパラドックスだ。
点火直後、圧力は垂直に近い角度で立ち上がる。これを『最大圧力(Pmax)』と呼ぶ。46cm砲ならおよそ3000気圧から3200気圧だ。
だが、圧力がそのピークに達した瞬間、1.46トンの砲弾が静止摩擦を振り切って動き出す」
東野園萌乃
「あ、そうか。砲弾が動けば、部屋(燃焼室)が広くなりますね」
雑賀壮平
「その通り。ボイル・シャルルの法則の適用だ。
ガスの発生による『圧力上昇』と、砲弾移動による容積拡大に伴う『圧力低下』。
この二つのベクトルの綱引きが行われる。
最初はガス発生が勝つ。だが、砲弾の速度が上がると容積の拡大スピードが勝り始め、圧力カーブはピークを打って下降に転じる。
このタイミングが絶妙でなければならない」
東野園萌乃
「早すぎれば砲が壊れるし、遅すぎれば弾が出た後に圧力がピークになって、エネルギーの無駄遣いになる……」
雑賀壮平
「そういうことだ。だから、330kgの火薬はただの塊じゃない。
レンコンのように穴が開いた円筒形をしている。
なぜだか分かるかい?」
東野園萌乃
「えっと……表面積、ですか?」
雑賀壮平
「そうだ。ただの円柱なら、外側から燃えて細くなり、表面積が減っていく。これを『減面燃焼』という。これだと後半のガス供給が落ちてしまう。
だが、穴が開いていれば、内側からも燃えることで穴が広がり、全体の表面積は減らない、あるいは増える。これを『増面燃焼(Progressive Burning)』という。
砲弾が加速して容積が急激に増える後半戦でも、高い圧力を維持して背中を押し続けるための工夫だ」
東野園萌乃
「なるほど……。330kgの全てが、計算された形をしているんですね。
先生、そのエネルギー効率ってどれくらいなんですか?
1.46トンの砲弾を初速780m/sで飛ばすエネルギーは、計算すると約444メガジュールになりますけど」
雑賀壮平
「君は本当に計算が速いな。
だが、330kgの火薬が持つ化学ポテンシャル・エネルギーは、その3倍以上ある。
つまり、熱効率はせいぜい30%前後だ。
残りの70%は、砲身を赤熱させる熱、ガス自体の運動エネルギー、そして摩擦損失として捨てられる」
東野園萌乃
「70%も捨てているんですか? もったいないですね」
雑賀壮平
「内燃機関なんてそんなものだよ。
特に、砲弾をライフリング(施条)に食い込ませる時の摩擦エネルギーは馬鹿にならない。
銅の帯(導帯)がライフリングに噛み込み、無理やり回転を与えられる。
この時、圧力カーブに変な脈動があると、異常腔圧を起こして大事故になる」
東野園萌乃
「先生の話を聞いていると、大砲を撃つというのが、単なる力任せな行為じゃなくて、すごく繊細な実験みたいに思えてきました」
雑賀壮平
「実験だよ。毎回が命がけのね。
330kgの装薬温度が一度違えば、燃焼速度も変わる。
だから射撃指揮所では、火薬庫の温度までパラメータに入れて弾道計算をしている。
『初速修正』というやつだ。
そこまでやって、ようやく数十キロ先の的に当たる確率が数パーセント生まれる」
東野園萌乃
「数パーセント……。何だか、人間の努力の儚さを感じます」
雑賀壮平
「同感だね。
330kgの火薬が生み出す圧力カーブの積分値、その総仕事量。
それを人を殺すために使うか、あるいはサターンVロケットのように月へ行くために使うか。
物理法則はどちらにも平等に働く。そこが残酷で、かつ美しいところだ」
東野園萌乃
「先生、ロマンチストですね」
雑賀壮平
「事象を客観的に記述しているだけだ。
……さて、解説料としてコーヒーを淹れてくれないか?
330kgの火薬より、カフェインの方が今の僕には必要だ」
東野園萌乃
「もう、仕方ないですね。越野さんに頼んで、とびきり濃いのを持ってきてもらいます。
あ、ついでに圧力カーブのシミュレーション結果もプリントアウトしておきますね!」
雑賀壮平
「……その『ついで』は余計だと言っているんだが」




