第155章 第8章:護衛の影(アクーラ級の介入)
1986年11月28日 10:00(ズールー時間)
北極海 バレンツ海北部
深度450フィート(約137メートル)
「両艦、距離を開けつつある(オープニング・レンジ)。……状況、安定」
ソナー先任兵曹のコワルスキーは、ヘッドセットを首に掛け、震える手でコーヒーカップを掴んだ。
「寿命が5年は縮まりましたよ、艦長」
マカリスター艦長もまた、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「ああ。だが、いいデータが取れた。奴らは演習ではなく、何か実戦的な任務を帯びている。あの過剰な反応が証拠だ」
《ヴァンガード》は、TK-208から距離を取り、静粛航行に戻っていた。
事態は収束した。誰もがそう思った。
その時、コワルスキーの表情が凍りついた。
彼はカップを放り出し、再びヘッドセットを耳に押し当てた。
「……Conn, Sonar! 新たな接触! 方位2-7-0!」
「何だと? 氷の反射じゃないのか?」
「違います! トランジェント(過渡音)! ……注水音です! 魚雷発射管に注水しています!」
マカリスターが飛び起きる。
「タイフーンか?」
「いえ、シエラ・ワン(タイフーン)は方位0-3-0です。……これは新しい奴だ! シエラ・ツー! 音質が違う……高速回転のタービン音。……アクーラ型(Project 971)です!」
(解説:アクーラ型 / Akula Class)
ソ連海軍の第三世代攻撃型原子力潜水艦。従来のソ連艦に比べて格段に静粛性が高く、深深度潜航能力と強力な攻撃力を持つ「サメ(アクーラ)」。西側にとっての真の脅威。
「罠だ……!」
マカリスターは歯噛みした。
タイフーンは単独ではなかった。あるいは、タイフーン自身が巨大な「囮」だったのか。我々が巨鯨に気を取られている間に、護衛のサメが死角の外側から忍び寄っていたのだ。
ソビエト連邦海軍 TK-208 艦長室
ボロディン大佐は、水中電話の受話器を置くと、海図台のモニターに映る戦術データを見つめた。
そこには、友軍識別信号(IFF)を発する緑色の点が、米軍潜水艦の側面へと回り込んでいるのが映っていた。
『K-284《アクーラ》よりTK-208。侵入者を捕捉した。排除するか?』
通信士が暗号通信を読み上げる。
ボロディンは冷ややかな目で、そのメッセージを見つめた。K-284の艦長は、血気盛んな若造だ。手柄を立てたくてうずうずしている。
「『攻撃は許可しない』と返信せよ」ボロディンは命じた。「ただし、『威嚇』は許可する。アメリカ人に、ここは誰の庭か教えてやれ」
「了解しました、艦長同志」
ボロディンはポケットからパイプを取り出し、火をつけずに弄んだ。
「賢いアメリカ人だ。私のクレイジー・イワンをかわした。……だが、2対1の状況でどう踊る?」
USS ヴァンガード 発令所
「魚雷発射管口、開放音!」
ソナー室からの絶叫が、艦内の空気を引き裂く。
「シエラ・ツー、発射シーケンスに入りました! 距離、推定8000ヤード!」
8000ヤード。中距離だ。だが、アクーラの搭載する533mm魚雷、あるいは650mm対艦ミサイル魚雷ならば、必殺の距離だ。
「総員、戦闘配置再開!」
マカリスターの思考が、恐ろしい速度で回転する。
撃ってくるか?
いや、本当に撃つつもりなら、ドアを開ける音など聞かせない。先制攻撃で沈めているはずだ。
これは「銃口を突きつける」行為だ。
だが、万が一ということがある。指が滑ることもある。
「MOSSの準備を急げ! 2番発射管!」
(解説:MOSS / Mobile Submarine Simulator)
自走式潜水艦シミュレーター。魚雷発射管から射出される囮。自艦と同じ音響信号を発しながら自走し、敵魚雷を誤誘導する。
「2番、MOSS装填済み! プログラム入力……『ウルフパック・エコー』パターン!」
Weps(火器管制官)がキーボードを叩く。
「艦長、スナップショット(緊急反撃)の指定は?」
「シエラ・ツー(アクーラ)へセットせよ! Mk48、モードは『イネーブル(探知・攻撃許可)』だが、発射トリガーはロック!」
マカリスターは決断した。
相手が撃つまでは撃たない。だが、相手が魚雷を放った瞬間、こちらも撃ち返す。相打ち(相互確証破壊)の構えを見せることで、相手を牽制するのだ。
「操舵手、面舵一杯! アクーラの魚雷射線に対し、艦首を向けろ(アスペクト・ゼロ)!」
横腹を晒すのが一番危険だ。被弾面積を最小にし、かつ反撃可能な体勢を取る。
「シエラ・ツー、ピングを打ってきました! アクティブ捜索!」
ピンッ! ピンッ!
再び、あの嫌な音が響く。しかし今度は、先ほどのタイフーンのような重い音ではない。鋭く、速い、攻撃的なリズムだ。
「ソナー、敵魚雷のモーター音(スクリュー音)はあるか?」
「……現在、確認できません。ドアは開いています。奴らは……待っています」
「チキン・ゲーム(度胸試し)か」
マカリスターは、拳を握りしめた。
アクーラは、「いつでも殺せる」と言っている。
タイフーンは、その隙に悠々と深海へ、あるいは氷の下のさらに奥深くへと姿を消しつつあった。
「シエラ・ワン(タイフーン)、距離を開けます。……ロスト(反応消失)。氷のキールの陰に入りました」
護衛がこちらを釘付けにしている間に、本命(VIP)が逃げたのだ。
完璧な連携だった。
「アクーラからの信号……止まりました。アクティブ停止」
コワルスキーの声に、疲労の色が混じる。
「ドア閉鎖音確認。……シエラ・ツー、減速。距離を保っています」
マカリスターは深く息を吐いた。
「……我々の負けだ」
彼は認めた。
完全に手玉に取られた。タイフーンを追うことに夢中になりすぎ、周囲の状況認識(SA:Situation Awareness)がおろそかになっていた。教科書通りの「囮とハンマー」戦術に嵌ったのだ。
「Weps、MOSSの発射準備解除。だが、発射管内の注水は維持せよ」
「アイ・サー」
「航海長」
マカリスターは、海図台の上の、未だ見ぬ北極点の方向を見つめた。
「奴らは我々を沈めなかった。……ということは、奴らには『ここで戦闘を起こしてはならない』理由がある」
ただのパトロールではない。
演習でもない。
もっと重大な、極秘の任務。
「追うぞ。アクーラを撒いて、もう一度タイフーンを見つける」
「正気ですか、艦長?」OODが驚愕する。「2対1ですよ?」
「いや、今は1対1だ。タイフーンは逃げた。残るはこの『番犬』だけだ」
マカリスターの目に、狩人の色が戻っていた。
「深海のチェス(Deep Sea Chess)を始めよう。まずは、このうるさい番犬を、氷の迷宮に置き去りにしてやる」
(第8章 完)




