第156章 第9章:深海のチェス(戦術運動)
1986年11月28日 11:45(ズールー時間)
北極海 ガッケル海嶺付近
深度800フィート(約244メートル)
「アクーラ(シエラ・ツー)、追跡を継続中。距離6000ヤード。彼らは我々のバッフル(死角)を狙ってジグザグ運動を繰り返しています」
コワルスキー先任兵曹の報告は、冷静だが切迫していた。
ソ連の新型は、優秀な猟犬だった。こちらの回避機動に合わせて変針し、決して「音の風下」を譲ろうとしない。
マカリスター艦長は、海図台に投影された海底地形図を睨みつけていた。
現在位置は、北極海を横断する巨大な海底山脈「ガッケル海嶺」の斜面。複雑に入り組んだ岩盤と、熱水噴出孔が点在する難所だ。
「このままではジリ貧だ。奴を剥がさない限り、タイフーンには近づけない」
マカリスターはOOD(甲板士官)に振り返った。
「『スプリント・アンド・ドリフト(高速移動と惰性聴音)』を行う。だが、教科書通りではない」
「どうされますか?」
「地形を使う。あそこの海山を見ろ。高さ400メートル。……音響の影を作るには十分だ」
戦術計算(TMA)
「火器管制官(Weps)、アクーラへの射撃解を維持。発射はしないが、いつでも撃てるようにロックしておけ」
「アイ・サー。ドップラー・シフト解析により、敵速18ノットと推定。ジャイロ・アングル(魚雷進行角)、右120度へプリセット」
マカリスターは頭の中で三次元のチェス盤を描いた。
アクーラのソナーは優秀だが、物理法則には逆らえない。岩盤の裏側は見えないし、聞こえない。
「航海長、次のウェイポイントを設定。海嶺の南側、深度1200フィートの谷間へ飛び込む」
「艦長、深度1200は圧壊深度に近い危険域です。それに、その谷は幅が狭すぎます」
「だからこそ、奴はそこへ行くとは思わない。……総員、準備。これより『ナックル』を生成し、急潜航する」
マカリスターは、次の一手を指示した。
* ナックル生成: 急旋回で水流の乱れを作り、偽の音響ターゲットを作る。
* ノイズメーカー射出: ナックルの中に音響欺瞞装置を落とし、あたかも艦がそこにあるかのように見せかける。
* サイレント・ダイブ: その隙に、本艦は動力を絞り、海底谷へ滑り落ちる。
「操舵手、面舵一杯! 前進一杯! ナックルを作れ!」
「面舵一杯、前進一杯!」
再び、スクリューが激しく水を掻く。
《ヴァンガード》の船体がきしむ。
「ノイズメーカー、射出!」
艦尾の信号射出機から、直径3インチのキャニスターが放出された。
海水に触れた瞬間に化学反応を起こし、気泡と共に広帯域雑音を撒き散らす。
「機関停止! ……潜航角20度! 深度1200へ! 音を立てるな!」
ソビエト連邦海軍 K-284 アクーラ ソナー室
「目標、急旋回! ……キャビテーション音、増大!」
ソナー員が叫ぶ。
「逃げる気か」アクーラの艦長は冷笑した。「追え。アクティブを打て」
ピンッ!
アクティブ・ソナーの波が、海中を走る。
音波は《ヴァンガード》が残した「ナックル(渦)」と「ノイズメーカー」の気泡群に当たり、強烈な反射波を返した。
「接触あり! 距離6200、深度変わらず! 奴ら、混乱してその場で回っています!」
「よし、魚雷発射管、1番、2番、開け。……トドメを刺してやる」
アクーラの艦長は、ソナー画面上の輝点が「偽物」であることに気づかなかった。
本物の《ヴァンガード》は、その数百メートル下、冷たい岩盤の谷底へ、石のように静かに沈んでいっていた。
USS ヴァンガード 海底谷
深度1150フィート(約350メートル)。
水圧は35気圧を超え、船殻はミシミシと悲鳴のような圧縮音を立てている。
「……深度1180。……海底まで、あと50フィート」
ソナーのコワルスキーは、自分の心臓の音がうるさいと感じていた。
頭上数百メートルで、アクーラがナックルに向けてアクティブ・ソナーを連打している音が聞こえる。
「奴ら、囮に噛みつきました」
コワルスキーがハンドサインを送る。
「海底反射の影響で、奴らの音はよく聞こえますが、こちらの音は谷の壁に吸われています」
ここが「シャドウ・ゾーン」だ。
音波は直進性が強く、海底の凸凹を回り込むことはできない。
マカリスターは、深海の水圧計を見つめた。
「……我慢だ。奴が諦めて通り過ぎるか、別の方向へ向かうまで」
数分が、数時間のように感じられた。
やがて、アクーラのスクリュー音が遠ざかり始めた。
「シエラ・ツー、増速。……方位0-9-0へ去っていきます。囮が消滅したので、我々を見失ったと判断し、捜索エリアを広げたようです」
「チェックメイトだ」
マカリスターは小さく息を吐いた。
アクーラは、我々が東へ逃げたと予測した。だが、我々はここにいる。
「……よし。アクーラの騒音が消えた今なら、微弱な音も拾えるはずだ」
マカリスターはコワルスキーに向き直った。
「チーフ、探せ。タイフーンの『ささやき』を」
コワルスキーは再び目を閉じ、ウォーターフォール・ディスプレイのノイズの砂嵐の中に意識を没入させた。
氷のきしむ音。海底火山の地鳴り。遠くのクジラの歌。
それらを一枚ずつフィルターで剥がしていく。
そして、残った音。
「……いました」
コワルスキーが目を開けた。
「方位3-5-0。極めて遠距離。……超低周波(VLF)のリズム。ポンプ音ではありません。……これは、ハッチの電動アクチュエーターの音です」
「ハッチ? またか?」
「いえ、今度は違います。……複数回の開閉音。それに……金属的な打撃音。何かが……引っかかっているような?」
マカリスターの脳裏に、不吉な予感が走った。
TK-208は、ただ隠れているのではない。
何かトラブル(故障)を抱えているのではないか?
「機関、微速前進。……キャニオンに沿って北上する。ターゲットへ接近せよ」
戦術は終わった。
ここからは、真実を探るための調査だ。




