第154章 第7章:クレイジー・イワン(緊急回避)
1986年11月28日 09:32(ズールー時間)
北極海 バレンツ海北部
深度400フィート(約122メートル)
世界が白いノイズに塗り潰された。
《ヴァンガード》の35,000馬力が逆噴射し、スクリューが水を激しく切り裂く音、そして目の前に迫る《TK-208》の巨大な推進音が混ざり合い、ソナー室のヘッドセットはもはや意味をなさなかった。
「衝撃!!」
マカリスター艦長は潜望鏡スタンドにしがみついた。
衝突の音ではない。それは「水圧の鉄槌」だった。
タイフーン級の4万8000トンという圧倒的な質量が押し退けた海水が、圧縮された塊となって《ヴァンガード》の船首を殴りつけたのだ。船体は悲鳴を上げ、艦首が大きく右へ弾き飛ばされる。
「深度制御不能! 艦首下げ(ダウン・アングル)25度!」
「ブロー・フォワード(前方タンク排水)! 緊急浮上!」
OODの絶叫に近い指示が飛ぶ。
バラスト制御員(COB)が安全カバーを叩き割り、「チキン・スイッチ(緊急用レバー)」を引く。
ボシュッ!!
高圧空気(3000psi)が前方メイン・バラスト・タンクに炸裂する音が、船殻を通して雷鳴のように響く。空気が海水を強制的に押し出し、沈み込もうとする艦首を強引に持ち上げる。
その瞬間、頭上のさらに不気味な音が通り過ぎていった。
ゴォォォォォォン……
まるで地下鉄が頭のすぐ上を走っているような、低く、腹に響く振動。
「直上を通過! 距離……クリアランス、50フィート未満!」
ソナー室からの報告は、恐怖で裏返っていた。
タイフーンの巨大なキールが、《ヴァンガード》のセイル(艦橋)をかすめるように通過していったのだ。もしあと数秒、回避が遅れていれば、セイルは切断され、耐圧殻は引き裂かれていただろう。
「……通過した(クリア)。……通過しました!」
第2区画 発令所
艦の揺れが収まり始める。だが、静寂は戻ってこない。
艦内は、非常用照明の薄暗いオレンジ色に包まれている。
「被害報告!」
マカリスターは乱れた呼吸を整えながら吼えた。
「浸水なし! 油圧系統、正常! 原子炉、出力安定!」
「ソナー、フロント・アレイ(前方聴音機)が飽和しています! 回復まで数分かかります!」
当然だ。至近距離でのキャビテーションと高圧空気の放出で、海の中は泡だらけだ。音響的な「ホワイトアウト」状態にある。
「機関、前進微速! 姿勢を立て直せ! 敵を見失うな!」
その時、ホワイトアウトしたはずのスピーカーから、明確な、そして殺意のこもった音が響いた。
ピンッ!!!
アクティブ・ソナーの強烈なピング音。それは捜索用ではない。射撃管制用の、ロックオン信号だ。
「敵艦、反転完了! 方位1-8-0! 正面です!」
コワルスキーの声が戻ってきた。「アクティブ・モードでこちらを照射中! 距離、1200ヤード!」
完全に捕捉された。
バッフルに隠れていたネズミが、振り向いた猫の目の前に引きずり出された形だ。
「スナップショット(緊急反撃)用意!」
マカリスターは即断した。この距離で躊躇すれば死ぬ。
「1番、2番発射管、発射用意! マズル・ドア(外扉)開放!」
「マズル・ドア開放! 1番、2番、準備完了!」
火器管制官(Weps)の手が発射トリガーの保護カバーにかかる。
「ソリューション(射撃解)、入力不要! 方位ゼロ方位へ、直接照準!」
対峙
深海400メートル。
二つの巨大な潜水艦が、わずか1キロメートルの距離を隔てて、魚雷発射管を向け合っていた。
西部劇の決闘と同じだ。どちらかが指を動かせば、数秒後には両者とも海の藻屑となる。
艦内は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの緊張に支配されていた。
ソナー音が、定期的に ピンッ……ピンッ…… と、相手の存在を確認し続けている。
「艦長」Wepsが震える声で言った。「撃ちますか?」
マカリスターは、汗で張り付いた前髪をかき上げた。
彼の判断一つで、第三次世界大戦が始まるかもしれない。これは公海上の事故ではない。隠密任務中の、国家の威信をかけた接触だ。
「……相手の魚雷発射管の音はどうだ?」
コワルスキーが答える。
「注水音は聞こえました。……ですが、外扉が開く音は、まだ確認できません」
マカリスターは目を細めた。
相手も躊躇している。あるいは、ボロディン艦長もまた、引き金を引くことの重さを理解しているのか。
「武器管制、ホールド(待て)。……だが、指はトリガーから離すな」
マカリスターは1MC(艦内放送)のマイクを握りしめた。
「Conn, Sonar!」
コワルスキーが叫んだ。
「敵艦より、水中電話の信号! 音声モードです!」
(解説:水中電話 / Gertrude)
音波を使って水中で通話を行う装置。音質は非常に悪いが、近距離であれば潜水艦同士で会話が可能。
「スピーカーに出せ」
ノイズ混じりの、しかし重厚なロシア語訛りの英語が、発令所に響き渡った。
『……アメリカ海軍潜水艦。……君たちのダンスは、少々ステップが乱暴すぎるのではないかね?』
ボロディン艦長の声だった。
マカリスターは、一瞬の沈黙の後、マイクを取った。口元に薄い笑みが浮かぶ。恐怖を超えた先にある、プロフェッショナル同士の奇妙な連帯感。
「……こちらのダンス・パートナーが、急にリードを変えるものでね。足を踏まないように必死だったよ、艦長」
『ふむ。……お互い、ステップの練習はもう十分だろう。これ以上続けると、床(海底)が抜けてしまう』
それは、「引こう」という提案だった。
「同感だ。……音楽を止めるか?」
『アクティブ・ソナー停止。……発射管注水、排水』
ソナー画面上で、敵艦の音響信号が変化した。攻撃的な高周波が消え、通常の航行音に戻っていく。
「Weps、発射管をロックせよ。……状況終了」
マカリスターは深く息を吐き出し、指揮官席に崩れ落ちるように座った。
冷たい汗が背中を伝うのが分かった。
「……生き延びたな」
だが、戦いは終わっていない。これは「第1ラウンド」に過ぎない。
TK-208はまだ何かを隠している。あの異常なまでの警戒と、氷の下での「待機」。
「航海長、現在位置を記録せよ。ここが『ダンスフロア』だ」




