第152章 第5章:深海のドッグファイト
1986年11月28日 08:15(ズールー時間)
北極海 バレンツ海北部
深度350フィート(約107メートル)
「総員衝撃に備えろ(Stand by for shock)!」
マカリスターの怒号が飛ぶと同時に、船体はきしみを上げて右へ傾いた。
敵のアクティブ・ソナーの反響音が、船殻をハンマーで乱打するように響き続けている。ピンッ! ピンッ! という甲高い音は、乗員の精神を直接削り取るようだ。
「操舵手、ナックル(Knuckle)を作れ! 面舵一杯、前進一杯!」
「面舵一杯、前進一杯、アイ・サー!」
35,000馬力の蒸気タービンが唸りを上げ、スクリューが水を噛む。
《ヴァンガード》は急激に右旋回を行い、水流を乱した。
(解説:ナックル / Knuckle)
潜水艦が急旋回や急加速を行うと、スクリューの水流で海水が攪拌され、渦や気泡の塊ができる。これは音響的に不連続な壁となり、敵のアクティブ・ソナー波を反射する「デコイ(囮)」の役割を果たす。
「ナックル生成! これを盾にする!」
「よし、回頭完了と同時に『あいつ』の裏側へ潜り込め! 氷のキールを遮蔽物に使え!」
マカリスターは海図台の等深線図ではなく、上方ソナーの画面を指差した。そこには、海面から槍のように突き出た巨大な氷の峰が映っている。
「機関停止! 惰性で滑り込め!」
「機関停止! ……スクリュー回転停止!」
《ヴァンガード》は自らが生み出した水流の乱れ(ナックル)を囮として残し、そのまま音もなく氷のキールの背後、音響的な影へと滑り込んだ。
第2区画 発令所 ソナー・コンソール
艦内は死のような静寂に包まれた。ポンプ類は最低限の出力を除いて停止され、乗員は靴を脱ぎ、呼吸すら潜めている。
「……ソナー、状況は?」
マカリスターが囁くように問う。コワルスキーは目を閉じたまま、ヘッドセットに神経を集中させていた。
「敵艦、ナックルに反応しました。……ナックルに向けてアクティブを打っています。我々を見失ったようです」
氷海域特有の「残響」が彼らを救った。氷の凹凸に反射した音波が乱れ飛び、敵のソナー員を惑わせているのだ。
「ターゲット、捜索パターンに移行。……右舷へ回頭中。遠ざかっていきます」
「よし。……危機は脱した」
マカリスターは額の汗を拭った。だが、まだ終わっていない。敵が背中を見せたこの瞬間こそが、解析のチャンスだ。
「コワルスキー、今のデータを回せ。あれは本当にタイフーンか?」
音響解析センター
コワルスキーは、記録されたばかりの音響データを呼び出した。
ウォーターフォール・ディスプレイ(音響表示画面)の履歴を巻き戻す。そこには、回避機動前の敵艦の音が、鮮明な緑色の線となって刻まれている。
「LOFARグラム(低周波分析記録)を表示。……デーモン(DEMON)処理を開始します」
(解説:DEMON / Demodulated Noise)
「復調雑音」処理。スクリューの回転に伴うキャビテーション(気泡)ノイズのリズム(振幅変調)を解析し、スクリューの枚数や回転数を割り出す技術。これにより艦種を特定できる。
「基本周波数、極めて低い。……シャフト・レート(軸回転数)は毎分60回転。ブレード(羽根)枚数は……7枚」
コワルスキーは画面上のスペクトル・ラインにカーソルを合わせる。
「50Hzのトナル(線スペクトル)を確認。これはソ連艦艇特有の交流電源ノイズです。そして、この独特の減速ギアの唸り(ギア・ワイン)……」
彼は確信を持ってマイクの送信ボタンを押した。
「Conn, Sonar。ターゲットの識別完了。目標はシエラ・ワン(Sierra-1:最初の探知目標)。艦種、タイフーン級原子力弾道ミサイル潜水艦。個体識別……TK-208」
「間違いないか?」
「100%です、艦長。以前、バミューダ沖で録音した『ドンスコイ』の指紋と一致します。右舷外側のシャフトに、微細な傷による独特のノイズがあります」
発令所 指揮官席
「TK-208、ドミトリー・ドンスコイか」
マカリスターは呟いた。ソ連海軍の虎の子。核ミサイル20基、合計200発の核弾頭を抱く黙示録の獣だ。
「奴は我々を探しているが見失った。今は氷の陰で耳を澄ませているはずだ」
火器管制官(Weps)が振り返る。
「艦長、ファイアリング・ソリューション(射撃解)を構築しますか? Mk48魚雷なら、氷のキール越しに誘導できます」
「いや、待て」
マカリスターは首を振った。
「我々の任務は撃沈することじゃない。奴が何をしようとしているのかを見極めることだ。それに、今の接触は不自然だ」
「不自然、とは?」
「奴はアクティブ・ソナーを打った後、すぐに離脱した。本気で我々を狩る気なら、護衛の攻撃型原潜(SSN)を呼ぶはずだ。……奴は一人で何かを隠そうとしている」
マカリスターは決断した。
「これより追跡に移る。だが、通常の追跡ではない。奴の真後ろ、バッフルズ(音響死角)に入る」
「バッフルズ・ダンスですか。この氷の迷路の中で?」OODが息を呑む。
「ああ。奴の巨大なスクリューが作り出す水流の乱れの中に入れば、奴のソナーは完全に盲目になる。……危険だが、特等席だ」
マカリスターは操舵手に視線を送った。
「操舵手、微速前進。あの怪物の影を踏みに行くぞ。……距離、2000ヤードを維持。絶対に音を立てるな」
《ヴァンガード》は、氷のキールの陰からゆっくりと身を乗り出した。
深海のドッグファイトは、派手な空中戦とは違う。それは、暗闇の中で相手の息遣いだけを頼りに、ナイフを持って背後に忍び寄るような、静謐で致命的な舞踏だった。




