第151章 第4章:氷の下へ(北極海突入)
1986年11月28日 03:00(ズールー時間)
バレンツ海 北緯74度 氷縁域(MIZ: Marginal Ice Zone)
「聞こえるか、この音を」
ソナー室で、コワルスキー先任兵曹がヘッドセットを少しずらして言った。
スピーカーからは、パチパチと焚き火が爆ぜるような音や、巨大なガラスが軋むような高音が絶え間なく流れている。
「アイス・クラッキング(氷の破砕音)だ」
USSは、開水面と氷海域の境界である「氷縁域(MIZ)」に差し掛かっていた。ここでは、波の力で流氷同士が衝突し、砕け、擦れ合うことで、凄まじい背景雑音が発生する。
「まるで建設現場の真ん中にいるようだ」と、新米のソナー員が顔をしかめる。
「ああ。だが、こいつは俺たちの味方にもなる」コワルスキーはニヤリとした。「この騒音のカーテンを使えば、俺たちは誰にも気づかれずに『屋根の下』へ潜り込める」
第2区画 発令所
「氷海突入まで、あと1000ヤード」
航海長の報告を受け、マカリスター艦長は頭上のスピーカーを見上げた。
「通信室、フローティング・ワイヤー(浮遊式アンテナ:海面付近を漂わせてVLF/LF通信を受信する長いケーブル)を回収せよ。これより通信途絶に入る」
「アンテナ回収、アイ・サー」
電動ウインチの唸りがかすかに響く。これで、本国からの指令も、家族からの便りも届かない。世界から切り離された。
「上方監視ソナー(アイス・マシン)、起動」
マカリスターの命を受け、OOD(甲板士官)が指示を飛ばす。
「BQS-15、アイス・ディテクション・モード! アクティブ・ピンガー、上方走査開始!」
通常、潜水艦は敵に聞かれることを恐れてアクティブ・ソナー(音波を出す探知機)を使用しない。しかし、氷の下では話が別だ。頭上を覆う氷盤の形状を把握しなければ、浮上することも、氷の山脈に衝突せずに航行することもできない。高周波の短いパルス音を真上に打ち、その反響で氷の厚さと距離を測るのだ。
「アイス・マシン、作動中。……来ました、氷盤です。深度変化なし」
「氷のキール(Ice Keel:海中に突き出た氷の峰)に警戒せよ」
氷山は「一角が水上、九角が水中」と言われる。海面上が平坦な氷原に見えても、水中には鋭利な氷の刃が数十メートルも垂れ下がっていることがある。
「ソナー、前方600ヤードに巨大なキールを探知! 推定喫水、90フィート(約27メートル)!」
「深度を下げろ!」マカリスターが即座に命じる。「深度300フィートへ。安全深度を確保せよ」
「深度300、アイ・サー。潜航角10度」
《ヴァンガード》は頭上の白い天井から逃げるように、深く沈み込んだ。
慣性航法装置(SINS)室
航海長の額には脂汗が滲んでいた。
氷の下では、GPS(当時はまだ試験運用段階)はおろか、オメガやロランといった電波航法も使えない。頼れるのは、ジャイロスコープと加速度計で自艦の位置を計算し続ける「SINS(Ships Inertial Navigation System)」だけだ。
「ESGM(静電支持ジャイロモニタ:電気的な力でベリリウム球を浮上させ、摩擦を極限まで減らした超精密ジャイロ)のドリフト率は?」
「現在、1時間あたり0.02海里です、航海長」
「悪くないが、油断するな。ここは磁北極に近い。磁気コンパスは役に立たんぞ」
高緯度海域では、磁力線が垂直に近くなるため磁気コンパスは狂い、また地球の自転速度成分が小さくなるため通常のジャイロコンパスの精度も落ちる。
「グリッド・ナビゲーション(極圏航法用の座標系)へ移行済み。SINSの指示値を絶対とする」
彼らが今どこにいるのか、正確に知る術は艦内にある精密機械だけだ。もしこれが故障すれば、彼らは出口のない氷の迷宮で永遠に彷徨うことになる。
発令所 火器管制セクション
氷の下に入ってから数時間が経過した。騒がしいMIZを抜け、分厚い定着氷の下に入ると、海は奇妙なほど静かになった。
「氷の下は、音響の鏡だ」
マカリスターは、海図台に肘をついて呟いた。
氷の下面は、荒れた鏡のように音を乱反射させる。遠くの音は減衰しやすいが、近くの音は予期せぬ方向から響いてくる。
「ソナー、ターゲットの状況は?」
コワルスキーの声がインターコムから響く。
「断続的です、艦長。氷の反射で音が散っています。……ですが、ヤツは確実にここにいます。方位0-3-0エリア。微弱なポンプ音」
「タイフーンか」
「はい。特徴的なのは、その『静けさ』の種類です。アクーラ型のような機械的なノイズではなく、巨大な質量の移動に伴う流体雑音が聞こえます」
タイフーン級は巨大すぎるがゆえに、低速では驚くほど静かだ。しかし、その巨体は海水を大きく押しのける。
「戦術的状況を整理する」
マカリスターはOODと火器管制官に向き直った。
「我々は敵のホームグラウンドにいる。奴らは氷の下での浮上やミサイル発射の手順を熟知している。一方で我々は、この狭い空間で身動きが取りにくい」
ロサンゼルス級のセイル(艦橋)と潜舵は強化されているが、タイフーン級のように厚さ3メートルの氷を突き破って浮上するようには設計されていない。もし浮上が必要なら、薄い氷の場所「ポリニヤ(氷湖)」を見つけなければならない。
「ソナー、ポリニヤを探せ。緊急時に息継ぎできる場所が必要だ」
「了解。上方ソナー、解像度最大。薄氷エリア(Thin Ice)をスキャンします」
その時、コワルスキーの声が鋭くなった。
「Conn, Sonar! トランジェント(過渡音)! 方位0-2-5! 近い!」
「識別せよ!」
「金属音……ハッチの開閉音に似ています。距離、推定4000ヤード以内!」
マカリスターの背筋が凍った。4000ヤード(約3.6km)。潜水艦戦では「ナイフの間合い」だ。
氷の乱反射のせいで、そこまで近づくまで気づかなかったのか、あるいは敵が氷のキールの陰に隠れていたのか。
「総員、戦闘配置(General Quarters)! 魚雷発射管1番、2番、注水!」
警報音が鳴り響く暇もなく、乗員たちが音を殺してそれぞれの配置へ走る。
「敵艦、急速に変針! ……回頭しています!」
「クレイジー・イワンか?」
「いえ……違います。こちらに向かってきます! アクティブ・ソナーを打ってきました!」
ピンッ!
船殻をハンマーで叩かれたような、鋭く、高い音が艦内に響き渡った。
敵のアクティブ・ソナーが《ヴァンガード》を捉えたのだ。
「見つかった」
マカリスターは、赤い照明の中で、静かに、しかし力強く命じた。
「面舵。回避機動。深海へ逃げるな、氷の裏側へ張り付け!」
(第4章 完)




