第150章 第3章:バリアを越えて(GIUKギャップ通過)
1986年11月27日 14:00(ズールー時間:協定世界時)
北大西洋 グリーンランド・アイスランド・英国(GIUK)ギャップ
深度650フィート(約198メートル)
海は、単なる水たまりではない。それは無数の層からなる、液体の大気だ。
USSは、アイスランドとフェロー諸島の間の海峡、通称「GIUKギャップ」の深淵を航行していた。ここは北大西洋から北極海への入り口であり、ソ連の潜水艦が大西洋へ進出するためのチョークポイント(戦略的要衝)である。
海面は大嵐が吹き荒れ、波高は15メートルに達しているはずだ。だが、深度650フィートの深海は、死のように静まり返っていた。
第2区画 発令所 ソナー室
「Conn(指揮所)、Sonar。XBT(投下式水温深度計)発射準備完了」
ソナー先任兵曹のコワルスキーが、インターコム越しに告げた。彼の目の前には、ソナー・コンソールだけでなく、環境データ分析用の端末が置かれている。
「Sonar、Conn。発射を許可する」
「了解。XBT、発射」
艦尾の信号射出機から、小さなプローブが放出される。プローブは極細の銅線を繰り出しながら深海へと沈んでいく。その銅線を通じて、深度ごとの水温データがリアルタイムで艦へ送られてくる。
コワルスキーは、記録紙に描かれ始めたグラフ、すなわち音速プロファイル(SVP:Sound Velocity Profile)を食い入るように見つめた。潜水艦乗りにとって、このグラフは「海中の天気図」であり、生死を分ける地図だ。
「……来ましたね。典型的な冬の北大西洋パターンです」
コワルスキーが独りごちる。
グラフのラインは、海面付近ではほぼ垂直(等温層)だが、ある深度を境に急激に左側(低温側)へ折れ曲がっている。
「Conn、Sonar。SVP解析終了。表面ダクト(Surface Duct:海面付近の音波が閉じ込められる層)は強力。ダクト深度は300フィートまで。そして……レイヤー(水温躍層:水温が急激に下がる境界層)は深度450フィートに存在」
マカリスター艦長がソナー室に入ってきた。手に持ったコーヒーマグからは湯気が出ている。
「解説してくれ、チーフ(先任)。ここをどう抜ける?」
コワルスキーはペン先でグラフの屈折点を叩いた。
「艦長、現在の海水温は摂氏4度。レイヤー深度の450フィートより下に行けば、水温低下によって音速が遅くなります。音波は『音速の遅い方へ』屈折する性質がありますから、レイヤーより下の音は下へ曲がり、上の音は上へ曲がります」
「つまり、450フィートのレイヤーが『音の壁』になるわけだな」
「その通りです。我々がレイヤーの下にいる限り、海面付近の駆逐艦のアクティブ・ソナー音波はレイヤーで反射・屈折し、我々に届きにくくなります。逆に、我々の出す騒音も海面には届きにくい」
「だが、CZ(コンバージェンス・ゾーン:収束帯)はどうだ?」
マカリスターの問いに、コワルスキーはニヤリと笑った。
「鋭いですね。ここが問題です。現在の音速プロファイルでは、深海サウンドチャネル(SOFARチャネル:音波が遠距離まで減衰せずに伝わる深度帯)の軸が深すぎて、第一CZは形成されにくい。しかし、海底反射は利用できます」
(解説:CZ / Convergence Zone)
深海において、音波は水温と水圧の影響で屈折を繰り返し、約30〜35海里(約60km)ごとに海面付近に「収束」する現象。これを利用すれば、水平線の遥か向こうの敵を探知できる。
「SOSUS(ソーサス:海底音響監視システム)の連中は、我々を聞いているか?」
「間違いなく。レイヤーの下にいますから、海底に設置されたハイドロフォン(水中マイク)への音の通り道は『ダイレクト・パス(直接波)』で筒抜けです。まあ、我々の音紋は味方として登録されていますから、警報は鳴らさないでしょうが」
発令所 操舵セクション
「操舵手、深度維持。コース、真北(0-0-0)」
マカリスターは指揮所に戻り、海図台に広げられた極めて精度の高い海底地形図に目を落とした。
「航海長、海底山脈までの距離は?」
「あと15分でレイキャビク・リッジを越えます。水深が急激に深くなります」
ここで海の色が変わる。北大西洋の比較的塩分濃度の高い水塊から、北極海由来の冷たく塩分の薄い水塊へと突入するのだ。
「バラスト制御員(COB)、トリム(浮力調整)に注意せよ。密度が変わるぞ」
「アイ・サー、艦長。補助タンク(Aux Tanks)の注排水準備よし」
数分後、船体に微妙な違和感が走った。揺れではない。浮力の変化による「重さ」の変化だ。
「深度低下! 沈降率毎分20フィート!」
潜舵手が報告する。冷たく塩分濃度の低い水塊に入ったことで、艦の相対的な密度が上がり、重くなったのだ。
「ポンプ室、補助タンクより排水! 3000ポンド排出せよ」
COBが素早くスイッチを弾く。高圧ポンプが唸りを上げ、艦内の海水を外へ押し出す。
「深度回復……沈降停止。トリム安定しました」
マカリスターは頷いた。
「よし。これで『バリア』を越えた。ここからは北極海(イワンの庭)だ」
16:00
GIUKギャップ以北 ノルウェー海
艦内の空気が変わった。それは物理的なものではなく、精神的な変化だった。
ここから先は、ソビエト北方艦隊の聖域であるバレンツ海へのアプローチだ。
マカリスターは1MC(艦内放送)の受話器を取った。
「総員へ、艦長だ。我々はGIUKラインを通過した。これより『ウルトラ・クワイエット(極静粛)』状態へ移行する。艦内の不要な移動は禁止。ハッチの開閉、工具の落下、大声での会話、すべてが命取りになると思え」
発令所の照明が、完全に「リグ・フォー・レッド(赤色灯)」に切り替わった。計器の光だけが、乗員の真剣な表情を赤く照らし出す。
「ソナー、新しいデータはあるか?」
コワルスキーの声が、先ほどよりも低く、緊張を帯びて響いた。
「Conn、Sonar。……聞こえます。方位0-1-5。極めて遠距離ですが、低周波のトナル(線スペクトル信号)を確認」
「何だ?」
「50Hzライン……商用電源周波数です。それに、独特の『重い』スクリュー音。回転数、極めて低い」
コワルスキーは、ウォーターフォール・ディスプレイに薄っすらと浮かび上がった、幽霊のような緑色の線を見つめた。
「タイフーンです。奴らは、我々を待っているわけじゃあない。……何かを、始めようとしています」
マカリスターは眼を細めた。
ムルマンスクからの熱源情報。そして、この海域での待ち伏せのような配置。
「TMA(目標運動解析)チーム、発令所へ。狩りの時間だ」
《ヴァンガード》は、音もなく深度を変え、冷たい闇の中へと滑り込んでいった。獲物の喉元へと続く、見えない道を辿って。
(第3章 完)




