第149章 第2章:ニューロンドンからの旅立ち
1986年11月24日 10:00(東部標準時)
アメリカ合衆国 コネチカット州 グロトン
ニューロンドン海軍潜水艦基地
ニューイングランドの晩秋の空は、鉛色の雲に覆われていた。
テムズ川の水面は鈍く波立っている。USS(SSN-599 ではなく架空艦番 SSN-72Xを想定)の艦長、ジェームズ・"マック"・マカリスター中佐は、セイル(艦橋構造物)のトップにある露天艦橋に立ち、ブリッジ・コーミング(波除けの枠)に肘をついて後方を振り返った。
長く伸びた白波の向こうに、かつてノーチラス号を生んだ「潜水艦の首都」グロトンの街並みが霞んでいく。
「艦長、ゴールド・スター・ブリッジを通過。水路中央を維持しています」
甲板士官(OOD:Officer of the Deck。艦の操艦・安全管理の最高責任者)の若い大尉が、防風ジャケットのマイクに向かって報告する。
「了解。水先案内人の退艦準備を進めろ」
マカリスターは革手袋をはめた手で双眼鏡を覗いた。この《ヴァンガード》は、ロサンゼルス級原子力潜水艦の初期型(フライトI)。水中排水量6,900トン。ソ連のタイフーン級に比べれば小船だが、その本質は「海中の戦闘機」だ。S6G加圧水型原子炉が生み出す35,000馬力は、この流線型の船体を30ノット以上の速度で推進させる。
「ブロック・アイランド海峡を抜ければ、そこはもう狩り場だ」
マカリスターは呟く。今回の任務は通常のパトロールではない。衛星情報が、ムルマンスクでの「異常な熱源反応」を捉えていた。
11:30
第2区画 発令所
マカリスターが垂直梯子を滑り降り、「艦長、発令所に入ります(Captain in the Control Room)」と宣言すると、当直士官たちが一瞬だけ視線を向け、すぐにコンソールへと戻った。
ここが艦の頭脳だ。狭い空間に、操舵席、バラスト制御盤(BCP)、航法プロット台、そして火器管制コンソールが凝縮されている。照明は、夜間視力を保護し計器の視認性を高めるための「リグ・フォー・レッド(赤色灯)」ではなく、昼間航行用の白色灯がまだ点いている。
「OOD、潜航点に到達したか?」
「はい、艦長。水深600フィート(約180メートル)ラインを越えました。トラフィック(近隣船舶)、クリア」
マカリスターは中央の潜望鏡スタンドの横にある艦長席に腰を下ろすわけでもなく、BCPの前に立った。
「潜航用意(Rig for Dive)」
OODが復唱し、艦内放送(1MC)のマイクを掴む。「潜航用意、潜航用意」
ここから、何百ものチェックリストが瞬時に処理されていく。
「主給気弁(メイン・インダクション・バルブ:ディーゼル発電機用の空気取り入れ口)閉鎖確認」
「ディーゼル排気弁、閉鎖確認」
「艦内開口部、全閉鎖。グリーンボード(全閉鎖表示灯)点灯」
バラスト制御員(COB:Chief of the Boat。最先任兵曹長が務めることが多い)が、通称「クリスマス・ツリー」と呼ばれるインジケーターパネルを指差確認する。全てのライトが、ハッチや弁が完全に閉じていることを示す緑色(Green)に変わった。直線のバー(―)が、円(〇)に変わる表示だ。
「潜航準備よし。水深計、誤差修正済み」
マカリスターは頷き、わずかに顎を上げた。
「潜航せよ(Submerge the ship)」
「潜航! 潜航!」
OODが叫び、COBがレバーを操作する。
「メイン・バラスト・タンク、ベント(排気弁)開放」
シューッという鋭い音が船殻を伝わってくる。バラストタンク上部のベント弁が開き、閉じ込められていた空気が逃げる。同時に底部のフラッド・ポート(注水孔)から海水が激しく流入し、艦の予備浮力を奪っていく。
「ベント、閉鎖。深度、58フィート……60フィート……潜航中」
「操舵手、潜航角10度。深度150フィートへ」
「潜航角10度、深度150、アイ・サー」
操舵手と潜舵手が、航空機の操縦桿のようなヨークを押し込む。
セイル(艦橋)の側面にあるフェアウォーター・プレーン(潜舵)が下向きに角度を変え、水流を受けて艦首を押し下げる。
足元のデッキが前下がりに傾斜する。
「トリム(前後傾斜)と浮力の調整を開始せよ」
ここからが芸術の領域だ。潜水艦は、海水密度、水温、搭載している食料や武器の重量変化によって、常に中性浮力(ニュートラル・ボヤンシー:浮きも沈みもしない状態)を保つ必要がある。
COBがポンプを操作し、トリム・タンク(艦首と艦尾にある調整タンク)と補助タンク(オーグジュアリー・タンク)の間で海水を移送する。
「トリム・ポンプ、駆動。艦首から艦尾へ2000ポンド移送」
「速度10ノット。トリム、ゼロ・バブル(水平)」
マカリスターは傾斜計を見つめる。気泡が完全に中央で止まった。
「トリム完了」
12:15
発令所 ソナー・コンソール
艦は完全に水面下の住人となった。
艦長の許可を得て、ソナー先任兵曹のコワルスキーがヘッドセットを装着する。
「スフェリカル・アレイ(艦首球形ソナー)、アクティブ送波停止。パッシブ(聴音)モード、全周波数スキャン開始」
ロサンゼルス級の最大の特徴である艦首の広大な球形ソナー室は、船体直径の大部分を占めている。ここには数千の聴音素子が配置され、あらゆる方向の音を拾う。
「BQS-13 DNA、正常。曳航ソナー(TB-16)、繰り出し(ストリーミング)開始。ケーブル長2400フィートまで伸長」
コワルスキーの指がウォーターフォール・ディスプレイ(時間経過と共に音響データが滝のように流れる画面)の上を走る。まだ画面は雑音だらけだ。
「浅海域のため、商船のスクリュー音と生物雑音が混在しています」とコワルスキー。「ですが、サーモクライン(水温躍層:温度が急激に変わる層で、音波の反射・屈折の原因となる)の下に入れば、クリアになります」
マカリスターが背後に立つ。
「Cheng(チェン:機関長の通称。Chief Engineerの略)、原子炉の状態は?」
機関長が振り返る。
「S6G、出力40%。冷却材ポンプ停止。自然循環モード(ナチュラル・サーキュレーション)へ移行済みです」
これがアメリカの静粛性の鍵だ。通常、原子炉の冷却には騒音の大きいポンプが必要だが、S6G炉は熱対流のみで冷却水を循環させる能力が高く、中速域まではポンプなしで航行できる。ポンプの機械音が消えれば、海の中でこの艦を見つけるのは至難の業となる。
「よろしい」
マカリスターは発令所を見渡した。全員がプロフェッショナルな顔つきに変わっている。故郷への想いは、ハッチを閉じた瞬間に遮断された。
「航海長、コース0-4-5。大西洋海盆へ向かう。深度400フィートへ」
「コース0-4-5、深度400、アイ・サー」
《ヴァンガード》は、深海という三次元の闇へ向かって滑り落ちていく。
マカリスターはポケットから一枚の硬貨を取り出し、無意識に指の間で転がした。
「コワルスキー、耳を澄ませろ。北大西洋の雑音の中に、いつもと違う『歌』が混じっているはずだ」
「了解です、艦長。クジラの恋歌か、それともイワンの唸り声か……聞き分けてみせます」
電子の滝が緑色の光を放ち、乗員たちの顔を照らし出す。
ハンターは、森に入った。
(第2章 完)




