第148章 第1部:出撃と潜航
1986年11月24日 06:00
ソビエト連邦 ムルマンスク州 ポリャールヌイ海軍基地
第18潜水艦師団 桟橋
北極圏の冬は、光を拒絶していた。
午前6時。漆黒の闇の中で、気温マイナス25度の寒気が剃刀のように空気を切り裂いている。凍てついたコラ湾の海面には、薄氷が黒い油のように漂っていた。その暗闇の中で、第7埠頭に横たわる全長175メートル、水中排水量4万8000トンの巨体は、人類が造り出した最も破壊的な建造物としての威圧感を無言のうちに放っていた。
ソビエト連邦海軍 941アクーラ型重原子力戦略潜水艦(NATOコードネーム:タイフーン級)一番艦、《TK-208 ドミトリー・ドンスコイ》。
艦長のヴァシリ・ボロディン大佐は、凍りついた艦橋(セイル:潜水艦の上部構造物。潜望鏡やアンテナ、指揮所を格納する)の頂部にある露天艦橋に立ち、分厚い防寒コートの襟を立てた。吐く息は瞬時に白濁し、髭に氷柱を作る。
「怪物だ」
ボロディンは愛憎を込めて呟いた。この艦は通常の潜水艦とは根本的に構造が異なる。二本の並列した耐圧船殻(プレッシャー・ハル:深海の高水圧に耐えうる強固な内殻)を、さらに巨大な外殻(アウター・ハル:流体力学的に成形された非耐圧の外板)が包み込む多重構造。その間には20基のR-39潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)が林立している。一隻で一国を滅ぼせる火力を、厚さ80ミリの吸音タイル(アネチョイック・タイル:敵のアクティブ・ソナー音波を吸収し、反響を防ぐゴム状の被覆材)が覆い隠していた。
「艦長同志、原子炉制御室(PCR)より報告。第1および第2原子炉、臨界(クリティカル:核分裂連鎖反応が一定の割合で持続する状態)まであと15分です」
インターコム(艦内通話装置)から、当直士官の声が響く。
「了解した。機関長に伝えろ。急ぐな、手順通りに行えと。……それと、タグボートの配置を確認させろ」
ボロディンは艦内へ戻るハッチを見下ろした。この鋼鉄の巨鯨を目覚めさせる時が来たのだ。
同刻
第5区画 原子炉制御室(PCR)
「1次冷却系、圧力150気圧で安定。加圧器(プレッシャライザー:冷却水が沸騰しないよう高圧を維持し、体積変化を吸収するタンク)水位、正常範囲内」
機関長のニコライ・ヴォルコフ二等佐官は、眼前に広がる「モルニヤ」統合監視盤の計器群を睨みつけていた。室内は空調の低い唸り音と、リレー回路が切り替わる乾いたクリック音だけが支配している。
TK-208の心臓部は、二基のOK-650加圧水型原子炉(PWR:炉心で温めた高温高圧水を蒸気発生器に送り、二次系の水を沸騰させてタービンを回す方式)である。それぞれの熱出力は190メガワット。小都市の電力を賄えるエネルギーが、この狭い区画で制御されている。
「第1炉、制御棒(コントロール・ロッド:中性子を吸収し、核分裂反応を制御する棒。ハフニウムやホウ素などで作られる)の引き抜きシーケンスを開始します」
原子炉操作員の若い声が僅かに震えている。
「許可する。グループ3、引き抜き速度『低速』。中性子束(ニュートロン・フラックス:単位時間・単位面積あたりを通過する中性子の数。原子炉の出力レベルを示す指標)の変化を注視せよ」
ヴォルコフは冷静に命じた。
操作員が慎重にトグルスイッチを操作する。炉心内部で、中性子吸収体がゆっくりと上昇し始める。
「中性子計数率、上昇中。……周期計(ピリオド・メーター:出力が自然対数の底e倍になるまでの時間を計測する計器。短すぎると暴走の危険がある)指示、安定。30秒……安定しています」
「よろしい。臨界近接。補償グリッド(シム・ロッド:長期的な反応度変化を調整するための粗調整用制御棒群)を調整位置へ」
画面上のグラフが、右肩上がりに上昇するカーブを描き始めた。核分裂によって生まれた中性子が、減速材である水によって速度を落とされ、次のウラン235原子核に衝突して新たな分裂を引き起こす。その連鎖が、指数関数的な増大から、自己持続的な平衡状態へと移行しようとしていた。
「実効増倍率(K-effective:中性子の増減比率。1.0で臨界、1.0を超えると出力上昇、未満だと減衰)、0.998……0.999……」
操作員が息を呑む。
「……1.000到達。第1炉、臨界に達しました。最小制御出力(ポイン・オブ・アディング・ヒート:核分裂エネルギーが冷却水の温度上昇として観測され始める出力レベル)にて安定」
「第2炉も同様に進行せよ」
ヴォルコフはわずかに肩の力を抜いた。だが、本当の戦いはこれからだ。冷え切った蒸気発生器(スチーム・ジェネレーター:1次冷却水の熱を2次冷却水に伝え、蒸気を作る熱交換器)に熱衝撃を与えないよう、慎重に昇温を行わなければならない。
「タービンへの送気準備。主復水器(メイン・コンデンサー:タービンで使用した蒸気を海水で冷却し、水に戻す装置)の真空度を確認せよ。循環ポンプ、低速回転」
巨大な心臓が脈動を始めた。熱エネルギーが蒸気へと変わり、それが2基の蒸気タービン・ギア減速機(GTZA)へと送られる準備が整う。それぞれが5万馬力を叩き出す怪物の筋肉だ。
06:45
中央発令所(GCP)
発令所は、柔らかな緑色の計器照明に包まれていた。ボロディン艦長は潜望鏡スタンドの脇にある指揮官席に座り、各部署からの報告を聞いていた。
「航海長、慣性航法装置(SINS:ジャイロスコープと加速度計を用い、外部からの電波なしに自艦の位置を計算し続ける装置)の整合は?」
「完了しています、艦長同志。誤差修正済み。現在位置精度、半径10メートル以内」
「ソナー、聴音状況は?」
「港湾雑音が激しいですが、システムは正常。曳航ソナー(Towed Array:艦尾から繰り出すケーブル状の聴音センサー列)は収納状態。船体固定ソナー(ハル・マウント・ソナー)全チャンネル、通電確認済み」
ボロディンは頷き、頭上のマイクを掴んだ。
「総員配置につけ(バトル・ステーション)。出港準備。タグボートへ連絡、もやい綱を放て」
重苦しい金属音が船殻を通じて響く。桟橋との物理的な繋がりが絶たれた。
「左舷後進微速、右舷前進微速。舵、左一杯」
巨大な船体が、その場での回頭を始める。アクーラ型特有の、2つのスクリューが大きく離れた配置は、このような巨体であっても繊細な操艦を可能にしていた。
「機関室、出力応答よし。両舷前進、微速。回転数30rpm」
「両舷前進微速、アイ・サー」
操舵手が復唱し、テレグラフ(速力通信機)のレバーを押し込む。
船尾の巨大な7枚翼ハイスキュー・プロペラ(静粛性を高めるために鎌のような形状をしたスクリュー)が水を掻き始めた。キャビテーション(空洞現象:スクリューの負圧面で水が沸騰し気泡が生じる現象。強烈な騒音源となる)を発生させない、限界ギリギリの回転数だ。
「深度計確認。キール(竜骨:船底の最下部)下の水深、40メートル」
「バラストタンク(メイン・バラスト・タンク:海水を注排水して浮力を調整するタンク)ベント弁、閉鎖確認。トリム(前後の傾き)調整よし」
TK-208は、凍てつくコラ湾の海面を滑るように進み始めた。
「これよりバレンツ海へ出る。深度維持、潜望鏡深度(ペリスコープ・デプス:潜望鏡やアンテナを水上に出せる浅い深度)。対水速力8ノットへ増速」
ボロディンは海図台に目を落とす。そこには、複雑な海底地形と機雷封鎖線、そしてNATOの潜水艦が待ち構えているであろう「死の海域」が記されていた。
「政治将校同志」ボロディンは傍らに立つ男に声をかけた。「我々の任務は、この『要塞』を氷の下へ隠すことだ。アメリカの攻撃型原潜に見つかることなく」
政治将校のイワノフは、冷ややかな目で海図を見つめ返した。
「見つかることは許されません、艦長。これは演習ではないのですから」
その言葉の裏にある意味を、ボロディンは無視することにした。今はただ、この4万8000トンの鋼鉄の塊を、物理法則と海流の支配する冷酷な世界へと同化させることだけに集中する。
「潜航用意。メイン・バラスト注水。……潜れ」
警報ブザーが艦内に鳴り響く。
ベント弁が開放され、バラストタンク内の空気が轟音と共に排出される。代わって海水が奔流となってタンク内へとなだれ込む。
TK-208の巨大な黒い背中が、白い泡に包まれながら、ゆっくりと北極海の冷たい波間へと消えていった。
海面下50メートル。そこは、光も電波も届かない、完全なる孤独と静寂の世界の入り口だった。
(第1章 完)
次のステップ
第1章では、タイフーン級原潜の出港と潜航プロセスを、原子炉起動から物理的な挙動まで詳細に描写しました。
続いて**第2章「ニューロンドンからの旅立ち」**へ進みますか?
ここでは対照的に、アメリカ海軍の攻撃型原潜《USS ヴァンガード》の出港と、より機動的な688級の操艦技術を描写します。それとも、第1章の内容について修正をご希望でしょうか?




