第147章 序章:モニターの前の提督
2025年12月 某日 深夜
野本のアパート
「笑笑」での平和維持活動を終え、私は独り、狭いアパートの自室に帰還しました。
酔いは、夜風ですっかり冷めています。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口飲む。
居酒屋での喧騒が嘘のように、部屋は静まり返っています。
「……ツーマン・ルール、か」
私はデスクの椅子に深く座り込み、スリープ状態のラップトップを開きました。
今日、私が小宮部長と亀山さんに対して切ったカード。
それは単なるその場の機転でしたが、歴史を振り返れば、人類はその「二人」の理性が同時に働かない限り世界が終わるという、薄氷の上を半世紀近く歩き続けてきたのです。
ディスプレイの青白い光が、暗い部屋を照らします。
私はキーボードに指を置きました。
今の私には、少し物足りなさがありました。
焼き鳥とサワーの平和も悪くありませんが、私の脳裏にはまだ、あの緊張感の余韻が残っています。
もっと冷たく、もっと重く、そしてもっと静かな緊張感が。
「シミュレーションを開始します」
私は誰に言うでもなく呟きました。
今夜の「笑笑」での茶番劇ではなく、本物の鉄と、本物の核と、本物の男たちが対峙した時代。
ボタン一つで世界が終わる恐怖と隣り合わせだった、あの1986年の冬へ。
もし、あの時。
小宮部長のような一時の感情ではなく、国家の威信と、誤った使命感を背負った艦長が、発射キーを握っていたら?
そして、それを止めるべき「もう一人」が、居酒屋の片隅ではなく、深海400メートルの閉鎖空間にいたとしたら?
カーソルが点滅しています。
私は、これから始まる物語のタイトルを打ち込みました。
『極点の静寂』
エンターキーを押すと同時に、2025年の日本の空気は消滅しました。
視界が白く凍りつき、気温はマイナス20度まで急降下します。
匂いが変わりました。
アルコールの匂いから、重油と、潮と、原子炉の排熱の匂いへ。
舞台は整いました。
これより、現実から虚構の海溝へと潜航します。
深度設定、1986年。
場所、ソビエト連邦、ポリャールヌイ。
……物語を始めましょう。
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