第145章 第4章:縄張り争いと伝統 〜部室を守る軍管区〜
野本ともうします。
「領土問題」という言葉を聞くと、多くの人は国境線の緊張を思い浮かべるでしょう。
しかし、学生にとっての領土とは、もっと身近で、切実なものです。
それは、部室の床面積であり、コタツの占有率であり、冷蔵庫の棚の段数です。
今日、私たちの聖域である「暇つぶしサークル」の部室に、隣国からの静かなる侵攻が始まっていました。
12月の寒空の下、部室のドアを開けた私は、異様な光景に足を止めました。
小宮部長が、部屋の中央で仁王立ちし、床に置かれた「段ボール箱」を睨みつけています。
「野本! 見なさいこれ!」
部長が指差した段ボールには、『手芸サークル・羊毛フェルト在庫』と書かれています。
私たちの部室は、隣の「手芸サークル」と薄いパーテーション一枚で仕切られているだけの長屋構造です。
どうやら、あちらの荷物が溢れ出し、境界線を越えてこちらの領土(床)を浸食しているようです。
「これは……明確な領空侵犯、いえ、領土侵入ですね」
私は冷静に分析しました。
「侵入どころじゃないわよ! 私の『昼寝スペース』がフェルトに占領されたのよ!」
部長が段ボールを蹴っ飛ばそうとして、思いとどまりました(中身が柔らかそうだったからでしょう)。
「これは戦争よ! 手芸サークルに宣戦布告して、この羊毛を焼き払うわ!」
コタツの中で、橋本副部長がみかんを剥きながら言いました。
「えー、部長が言いに行ってよ。俺、あそこの部長(手芸女子)苦手なんだよ。目が合うと『何か作りますか?』って勧誘してくるし」
「情けないこと言わないでよ! あんた副部長でしょ!」
「まあまあ、お二人とも」
私は鞄を置き、ホワイトボードの前に立ちました。
「感情的に突撃しても、玉砕するだけです。まずは組織論的アプローチで防衛体制を固めましょう」
「また組織論?」部長が顔をしかめます。
「はい。今回の事案は、広大な国土(部室)をどう守るかという、**ロシア軍の『軍管区(Military District)』**の概念が参考になります」
私はボードにロシアの地図を描きました。
「ロシア軍は伝統的に、国土をいくつかの『軍管区』に分け、その地域の防衛と行政を一元管理させています。西部、南部、中央、東部などです」
「ふーん。で?」
「重要なのは、2024年に行われたプーチン大統領による大改革です。これまで対NATO戦線の要だった『西部軍管区』が解体され、ソ連時代のような**『モスクワ軍管区』と『レニングラード軍管区』**に分割・再編されました」
「なんで分けたの?」
「NATOの拡大(フィンランド、スウェーデンの加盟)に対応するためです。脅威が増した北西部(レニングラード方面)と、首都機能を守る指揮系統を分け、それぞれの正面に集中するためです」
私は段ボール箱(手芸サークル)を指しました。
「今、当サークルも『手芸サークル』という強大な隣国(NATO)の膨張圧力に晒されています。これに対応するには、漫然と部室全体を守るのではなく、軍管区を再編する必要があります」
私は部室の見取り図を描き、赤線を引きました。
「まず、最も重要なコタツ周辺および部長の昼寝スペース。ここを**『首都軍管区』**と定義します」
「おお、首都!」部長が頷きます。
「そして、敵の侵攻ルートであるパーテーション付近および入り口。ここを**『北部軍管区』**とします」
私は橋本副部長の肩を叩きました。
「橋本副部長。あなたは今日から『レニングラード軍管区司令官』です」
「え、また俺?」
「はい。あなたの任務は、この最前線において手芸サークルの侵攻(荷物)を食い止め、押し返すことです。首都(部長)は後方で戦略指揮を執ります」
「うわー、最悪な役回りじゃん。寒いし」
「待って野本」
部長が口を挟みました。
「システムは分かったけど、橋本にそんなやる気があると思う? 『軍管区司令官』なんて肩書きだけじゃ、こいつは動かないわよ」
「……確かに」
私は橋本さんの死んだ魚のような目を見ました。
ロシア軍のようなトップダウンの命令系統だけでは、この「働かない男」を動かすことは不可能です。
「ならば……精神論を注入しましょう」
私は眼鏡を光らせました。
「日本国 自衛隊の伝統である、**『連隊(Regiment)』**の精神を導入します」
「連隊?」
「はい。欧米の軍隊において『連隊』は単なる管理単位になりつつありますが、自衛隊、特に陸上自衛隊において『連隊』は特別な意味を持ちます」
私は拳を握りしめました。
「それは、**『家』**です」
「家?」
「『同じ釜の飯を食う』という言葉がありますが、自衛隊員にとって連隊とは、苦楽を共にする運命共同体。連隊長は『オヤジ』、中隊長は『兄貴』。帰属意識の源泉であり、兵士の魂の拠り所なのです」
私は汚れたタオルを一本、橋本さんに渡しました。
「橋本さん。これはただの雑巾ではありません。我が『第1暇つぶし連隊』の栄光ある**『連隊旗(Regimental Colors)』**です」
「……雑巾だろ、これ」
「いいえ、連隊旗です。自衛隊において連隊旗は、天皇陛下から授与された神聖なもの。戦場において、連隊旗がある限り部隊は壊滅しません。逆に、これを奪われることは死よりも重い恥とされます」
私は橋本さんの目をじっと見つめました。
「橋本さん。手芸サークルの羊毛フェルトによって、我々の『家』が汚されています。我々の聖なるコタツが脅かされています。あなたは、この連隊旗(雑巾)を守るための戦いを、放棄するのですか?」
「……いや、放棄っていうか」
「思い出してください。去年の冬、あそこの手芸サークルがストーブを貸してくれなかった時の寒さを! 震えながらシェアした肉まんの温かさを! 我々は、寒さと空腹を共にした『第1暇つぶし連隊』の兄弟ではないのですか!?」
私の熱弁に、橋本さんの目が少しだけ泳ぎました。
「ま、まあ、肉まんは美味かったけど……」
「ならば行け! レニングラード軍管区司令官として、そして連隊の旗手として! 敵(手芸女子)と交渉し、領土を回復するのです!」
「う、うおお……? なんかやらなきゃいけない気がしてきた……」
橋本副部長は、謎の熱気に押され、雑巾(連隊旗)を肩に担いで立ち上がりました。
「行ってくる! 俺たちのコタツは俺が守る!」
橋本さんは勢いよく部室を出て、隣のドアをノックしました。
壁越しに声が聞こえます。
『あのー、すいません! 暇つぶし連隊の橋本ですけど!』
『は? 連隊?』
『あ、いや、えっと、荷物がはみ出してるんで、ちょっと下げてもらえませんか! 僕たちの……その、大事な“家”なんで!』
しばらくの沈黙の後。
『あー、ごめんなさい。今片付けますねー。……ていうか、その肩の雑巾、何ですか?』
数分後。
橋本副部長が戻ってきました。
段ボール箱は撤去され、さらに手には「お詫びのクッキー」が握られていました。
「帰還しました! 作戦成功です!」
「おお、でかした橋本!」
部長がクッキーに飛びつきました。
「お詫びの品までぶんどってくるとは、さすが我が軍のエースね!」
「いやー、言ってみるもんだね。向こうも『邪魔ですいません』って素直だったよ」
橋本さんは照れくさそうに鼻をこすり、雑巾をテーブルに置きました。
「野本、あんたの言う通りだったわ」
部長がクッキーをかじりながら言いました。
「機能的な『軍管区』の区分けと、情緒的な『連隊』の結束。このハイブリッドが、このサークルを救ったのね」
「はい。組織はシステムだけでは動きません。最後は『ここが俺たちの居場所だ』という、非合理的な愛着が人を動かすのです」
私は温かいお茶を淹れました。
取り戻した領土(床)は、いつもより少しだけ広く見えました。
コタツという小さな首都を守るために、私たちはこれからも連帯していくのでしょう。
野本ともうします。
ちなみに、橋本さんが持っていった雑巾は、実は私が昨日窓を拭いたやつです。
神聖な連隊旗が汚れていて、申し訳ありません。
(第5章へ続く)




