第143章 第2章:星の数とプライド 〜バイト先の元帥と大校〜
野本ともうします。
平日は大学でロシア文学の重厚な憂鬱に浸っていますが、週末は国道沿いのファミレス「ジョリーズ」で、油汚れという名の現実と格闘しています。
時給は980円。
私の労働力と引き換えに得られるこの対価は、果たして適正なのか。
それは『資本論』を紐解くまでもなく疑問ですが、今の私はそれよりも切実な「階級闘争」に直面していました。
午後3時のアイドルタイム。
客足が途絶えた店内は、嵐の前の静けさに包まれていました。
私はドリンクバーの補充作業を終え、バックヤードに戻りました。
すると、シンクの前で、ベテランパートの亀山さんが、ものすごい形相でシルバー(スプーンやフォーク)を拭き上げていました。
「……亀山さん。殺気が漏れています」
私が声をかけると、亀山さんは濡れたスプーンをバタン!と籠に投げ入れました。
「聞いてよ、野本さん! 今度の新しい店長、また私に文句言ってきたのよ!」
今月着任したばかりの佐藤店長。
大卒の20代で、意欲的ではあるものの、マニュアル至上主義なところがあります。
亀山さんは勤続15年の「主」であり、実質的な現場の支配者。
この二人の衝突は、避けられない運命でした。
「『亀山さん、シルバーの拭き上げ、マニュアルだと1本3秒です。もう少しペース上げてください』だって! 私がこの店で何万本のスプーンを拭いてきたと思ってるのよ!」
亀山さんの怒りはもっともです。
しかし、組織において指揮官(店長)への不信感は士気に関わります。
そこに、同僚の富山さんが更衣室から出てきました。
「あーあ、またやってる。店長もさ、亀山さんに言わなきゃいいのにね。一番仕事速いんだから」
「富山さん、亀山さん。落ち着いてください」
私は新しいダスターを手に取り、静かに口を開きました。
「この対立の原因は、互いの『階級』に対する認識のズレにあります」
「階級?」
亀山さんが手を止めました。
「はい。亀山さん、店長という役職を、各国の軍隊の階級に当てはめてみましょう。そうすれば、彼の『小物感』が浮き彫りになり、腹も立たなくなります」
「へえ、面白そうじゃない。やってみてよ」
亀山さんが身を乗り出しました。
私はシルバーの籠をひっくり返し、スプーンとフォークを並べて図解を始めました。
「まず、この『ジョリーズ群馬店』を、一つの独立した作戦単位、規模としては**『旅団(Brigade)』**と仮定します。従業員数30名、年商数億円。この部隊を指揮する店長は、アメリカ陸軍で言えば……」
私はスプーンを一本置きました。
「**『准将(Brigadier General)』**に相当します」
「准将? 将軍じゃない! 偉いじゃないのよ」
亀山さんが不満げに言いました。
「いえ、ここがポイントです。アメリカ軍における准将は『ワン・スター(星一つ)』。確かに将官ですが、その入り口に過ぎません。上には少将、中将、大将と、綺羅星のごとき将軍たちがいます。彼は将軍ごっこを始めたばかりのヒヨッコです」
「ふん、ヒヨッコ将軍ね」
「しかし!」
私は声を張り上げました。
「これが**中国人民解放軍(PLA)**となると、話が劇的に変わってきます」
「中国?」
「中国軍には、長らく『准将』という階級が存在しませんでした(※制度変更の変遷はありますが、概念として)。その代わり、少将の下、大佐の上に位置する、独自の階級があります」
私はフォークを四本並べました。
「それが、**『大校(Senior Colonel)』**です」
「だい……こう?」
「はい。英語で言えばシニア・カーネル。直訳すれば『上級大佐』です。つまり、中国式の解釈では、店長は将軍ですらありません。あくまで**『佐官』の親玉**に過ぎないのです」
「佐官……。要するに、ただの現場の中間管理職ってこと?」
「その通りです。中国軍は規模が巨大すぎるため、佐官レベルで管理する層を厚くしなければならなかった。店長もそうです。本部(党中央)からのノルマに怯え、エリアマネージャーの顔色を窺いながら、現場の我々を統率しようと必死な『大校』……。そう思うと、あの偉そうな態度も、悲しき中間管理職の虚勢に見えてきませんか?」
亀山さんがニヤリと笑いました。
「なるほどねぇ。将軍様かと思ったら、ただの『大佐の親分』だったわけね。星が四つあっても、将軍の太い金線じゃなくて、佐官の細い線なんでしょ?」
「ご名答です。彼の背中には、哀愁という名の細い線が入っています」
「あはは! 傑作!」
亀山さんの機嫌が目に見えて良くなりました。
富山さんが呆れ顔でカットインしてきました。
「野本さん、その理屈でいくと、バイトリーダーの野本さんは何になるの?」
私は眼鏡を押し上げ、エプロンの紐を締め直しました。
「私は、**自衛隊における『1等陸佐』**です」
「いっさ?」
「はい。旧軍や諸外国でいう『大佐(Colonel)』ですが、自衛隊では軍事色を薄めるために『佐』を使います。1佐、2佐、3佐とありますが、1佐は別格です」
私は胸を張りました。
「1佐は、連隊長として約1,000名の隊員を率いる、現場指揮官の頂点です。映画『シン・ゴジラ』でも、現場でゴジラと対峙して指揮を執っていたのは1佐たちでした。つまり、このホールのランチタイムという最前線を仕切る私こそが、実質的な現場の王なのです」
「現場の王ねぇ……」
富山さんが冷ややかな目で手元の伝票を見ました。
「その1等陸佐殿にご報告です。さっきオーダー取った3番テーブルの『ハンバーグ・デミグラスソース』、厨房に『和風おろし』で通ってましたよ。今、キッチンからクレーム来てます。指揮系統、大混乱ですけど」
「……!」
私は凍りつきました。
「誤送……!? 通信障害か!?」
「ただの書き間違いでしょ。早く謝ってきなよ、1佐」
「くっ……! 直ちに戦線を立て直さねば!」
私は慌てて伝票を修正しました。1佐としての威厳が音を立てて崩れていきます。
「ちょっと野本さん」
亀山さんが私を引き止めました。
「あんたが1佐で、店長が大校なら、私は何なのよ? 私は野本さんより歴も長いし、仕事もできるわよ。まさか『曹長』とか言わないでしょうね?」
私は冷や汗を拭いながら、必死に思考を回転させました。
亀山さんを納得させ、かつ私のミスを有耶無耶にするための最高位の階級……。
アメリカ軍には平時の元帥はいません。中国軍も元帥は廃止されています。
となると……。
「か、亀山さんは……**ロシア連邦軍の『元帥(Marshal)』**です!」
「元帥?」
亀山さんの目の色が変わりました。
「はい。アメリカ軍では戦時にしか元帥を置きませんが、ロシア軍には現代でも平時に『元帥』が存在します。国防大臣や参謀総長を経験した、雲の上の存在。その階級章は、直径40ミリの巨大な一つ星と、ロシアの国章(双頭の鷲)です」
「平時の元帥……。双頭の鷲……」
亀山さんがうっとりと呟きました。
「亀山さんは、シフト(戦場)にはあまり出ませんが、店にいるだけで全軍(バイト全員)の士気に関わります。店長(大校)ごときが口を出せる存在ではありません。あなたはそこに座って、優雅にお茶(給水)をしているだけでいいのです。それが元帥の特権ですから!」
「そう……そうよね。私は元帥よね」
亀山さんは深く頷き、持っていたダスターをバサリと置きました。
「よし、分かったわ。1等陸佐、後の処理は任せたわよ。私はバックヤードで『戦略的視察(休憩)』をしてくるから」
「イエッ・マム! (了解であります!)」
亀山さんは「元帥」の貫禄を漂わせながら、ゆっくりと休憩室へと消えていきました。
その背中には、目に見えない巨大な星(Marshal Star)が輝いているようでした。
「野本さん、適当なこと言って亀山さんをサボらせないでよ……」
富山さんがため息をつきました。
「ほら、店長がこっち見てるよ。『大校』が怒りの形相で接近中」
私はキッチンの方を見ました。
佐藤店長が、オーダーミスの伝票を片手に、眉間にしわを寄せて歩いてきます。
しかし、私は恐れません。
私の背後には、休憩室という安全地帯に控える「ロシア連邦元帥」がいるのです。もし店長が過度な攻撃に出れば、元帥が黙っていないでしょう。
「1佐、迎撃用意!」
「はいはい、謝りに行きますよ」
富山さんに背中を押されながら、私は店長の前へと進み出ました。
「店長(大校)! 申し訳ありません、通信障害により誤った支援要請が飛びました!」
店長は一瞬きょとんとしてから、「……次は気をつけてね」と力なく言いました。
彼もまた、本部からのプレッシャーと、現場のベテラン(元帥)との板挟みで戦う、孤独な「大校」なのかもしれません。
バイトが終わる頃には、日はすっかり落ちていました。
更衣室に戻ると、亀山さんが私服に着替えて待っていました。
機嫌はすこぶる良さそうです。
「野本1佐、お疲れ。今日の戦果(売り上げ)はどうだった?」
「本日は平日にも関わらず、敵勢力(客)の波状攻撃が激しく、防衛ライン(キッチン)が一時突破されかけました」
「ふふ、頼もしいわね。じゃあ、帰りに『補給(お茶)』でもしていく?」
私たちはファミレスを出て、夜の国道沿いを歩き出しました。
国道を走るトラックの列が、まるで兵站輸送部隊のように見えます。
「ねえ野本さん」
「はい」
「元帥って、定年はあるの?」
「ロシア連邦元帥は終身官です。死ぬまで元帥です」
「そう。じゃあ、まだまだ辞められないわね」
亀山さんは笑いました。
明日もまた、この戦場でスプーンとフォークの音が響くのでしょう。
組織の構造と階級を理解すれば、理不尽なバイトも、壮大な軍事演習へと変わります。
野本ともうします。
私の階級は1等陸佐。
しかし、時給が上がる気配は、今のところありません。
(第3章へ続く)




