第141章 第5章:二人の鍵 〜最終兵器と平和の維持〜
野本ともうします。
核戦略の究極のパラドックス。
それは、「兵器は使われるためにあるのではなく、使われないためにある」という点です。
世界最強の破壊力を持つミサイルも、発射スイッチが押された瞬間、それは兵器としての価値を失い、単なる「自殺の道具」に成り下がります。
今夜、駅前の居酒屋「笑笑」の個室で、私たちの小さな世界が、そのスイッチが押されるかどうかの瀬戸際に立たされていました。
「もういい! 辞めてやるわよ!」
小宮部長の絶叫が、個室のカラオケ音よりも大きく響き渡りました。
テーブルには、飲みかけのサワーと、冷めた焼き鳥が散乱しています。
事の発端は、些細なことでした。
今日は珍しく、暇つぶしサークルのメンバーと、バイト先の亀山さんたちが合同で飲む「異文化交流会」でした。
しかし、酒が進むにつれて、亀山さんの「仕事論(説教)」が始まり、それに小宮部長が噛みついたのです。
「あんたね、シフトに入れるだけありがたいと思いなさいよ」と亀山さん。
「こっちはテスト前なのよ! 学業優先でしょ!」と部長。
売り言葉に買い言葉。
そしてついに、部長が立ち上がり、禁断のカードを切ったのです。
「もう知らない! バイトも辞める! ついでにこのサークルも解散よ! 全部リセットしてやる!」
その場の空気が凍りつきました。
橋本副部長が枝豆を落とし、富山さんがおしぼりを握りしめます。
重子さんと山田くんは、関わりたくないのかスマホを見つめています。
これは、単なる喧嘩ではありません。
私たちの生活基盤の崩壊危機です。
部長がバイトを辞めればシフトは崩壊し、サークルを解散すれば私たちの居場所が消滅します。
まさに、**「世界核戦争」**の幕開けです。
部長が鞄を掴み、ドアに向かおうとしました。
「帰る! もう二度と顔見せないから!」
「待ってください」
私は静かに立ち上がり、ドアの前に立ちはだかりました。
「野本、どいて! 私を止めても無駄よ!」
「いいえ、止めます。正確には、『システムが発射を許可しません』」
「はぁ?」
私は眼鏡を外し、懐からおもむろに「割り箸の袋」を取り出しました。
「小宮艦長。あなたは今、**『最終兵器(ちゃぶ台返し)』**の使用を宣言しました。これは組織を壊滅させる核攻撃命令です」
「そうよ! 私にはその権利があるわ!」
「確かに、あなたは最高指揮官(艦長)です。しかし、戦略原潜において、核ミサイルの発射は艦長一人の意思では実行できません」
私は部屋の奥にいる橋本副部長と、手前の亀山さんを指差しました。
「**『二人ルール(Two-Man Rule)』**をご存知ですか?」
「ツーマン……?」
「核兵器の誤射や、指揮官の乱心による発射を防ぐための安全装置です。発射キーは、艦長と、もう一人――副長や兵器管制官など、物理的に離れた場所にいる人間が持っています。二人が同時にキーを回さなければ、回路は接続されず、ミサイルは飛びません」
私は橋本副部長を見ました。
「橋本副長(XO)。艦長から『サークル解散』という発射命令が出ました。あなたは同意し、発射キー(賛成)を回しますか?」
橋本副部長は、眠そうな目で部長を見ました。
「……えー、解散? 面倒くさいなぁ」
彼はあくびを噛み殺しました。
「部室なくなると、昼寝する場所ないし。冬は寒いし。俺はキー回さないよ」
「副長の同意が得られません」
私は部長に向き直りました。
「システムエラー。サークル解散シークエンス、停止しました」
「なっ……! 副部長のくせに生意気な!」
部長が地団駄を踏みます。
「じゃあバイトは!? バイトを辞める権利は私にあるわ!」
「では、こちらの管制官に確認します」
私は亀山さんを見ました。
「亀山管制官。小宮艦長が『バイトを辞める』と言っています。これにより、来週のシフトに巨大な穴が開き、あなたの業務負担が倍増(死)しますが、発射を承認しますか?」
亀山さんは焼き鳥の串を置き、腕を組みました。
「……冗談じゃないわよ。年末の繁忙期に抜けられたら、私が死ぬわ。絶対に承認しないね」
「管制官もキーを回しません」
私は部長に告げました。
「フェイルセーフ(安全装置)が作動しました。あなたは、辞められません」
「う……うう……!」
部長は顔を真っ赤にして、拳を震わせました。
「何よそれ! みんなして私を閉じ込める気!? 私の意思はどうなるのよ!」
「意思……そうですね」
私は一歩近づき、部長の目を見据えました。
「最後に一つ確認させてください。**『EAM(緊急動作指令)』**についてです」
「イーエーエム?」
「潜水艦は、本国(大統領)からの暗号指令を受信して初めて攻撃態勢に入ります。……小宮さん。あなたの『本国』、つまりあなたの心(理性)は、本当に世界を滅ぼしたいと願っているのですか?」
「え……」
「ここを飛び出して、サークルを潰して、バイトの仲間と縁を切って。その後に残る『放射能に汚染された荒野(孤独)』を、あなたは本当に望んでいるのですか? それは、ただの『一時の感情』ではありませんか?」
部長の動きが止まりました。
怒りに任せて振り上げた拳。
しかし、その先にある未来を想像したのでしょう。
彼女の目から、スーッと涙がこぼれ落ちました。
「……だって……だって、亀山さんがうるさいんだもん……」
部長はその場にへたり込みました。
「私だって頑張ってるのに……」
緊張の糸が切れました。
亀山さんがため息をつき、新しいおしぼりを部長に投げ渡しました。
「悪かったわよ。言い過ぎたわ。……ほら、顔拭きなさい。明日もシフト入ってるんでしょ」
「うぅ……亀山さんのバカァ……」
部長はおしぼりで顔を覆って泣き出しました。
「……状況、終了」
私は静かに宣言し、席に戻りました。
橋本副部長が、枝豆を一つ私に差し出しました。
「ナイス迎撃」
「いえ、システムが正常に機能しただけです」
泣いている部長の背中を、富山さんがさすっています。
重子さんと山田くんも、気まずそうにしながらも、追加のポテトを注文してくれました。
私はウーロン茶を一口飲みました。
冷たい液体が喉を通り抜けていきます。
戦略原潜(SSBN)の乗員たちが、最も誇りに思う瞬間。
それは、ミサイルを撃った時ではありません。
数ヶ月の過酷なパトロールを終え、ミサイルを一発も撃つことなく、無事に母港へ帰投した時です。
「何も起きなかった」
それこそが、彼らが世界を守った証拠なのです。
今夜、この居酒屋で核戦争は回避されました。
世界は滅びず、私たちはまた明日も、面倒くさくて、騒がしくて、愛おしい日常へと戻っていくことができます。
「野本、あんたも飲みなさいよ」
泣き止んだ部長が、赤い目で私にコップを突き出しました。
「平和維持軍の手当よ」
「では、いただきます」
私はコップを合わせました。
乾杯の音が、ソナー音のように澄んで響きました。
帰り道。
冬の夜空を見上げると、オリオン座が輝いていました。
宇宙の彼方から見れば、地球上の私たちの悩みなど、塵のようなものでしょう。
それでも、私たちはこの小さな星の上で、ボタンを押したり、押さなかったりしながら生きています。
「野本さん、明日のシフト、よろしくね」
別れ際、亀山さんが手を振りました。
「了解しました。定刻通り、作戦海域へ展開します」
私はマフラーを巻き直しました。
野本ともうします。
私の、そして私たちの「暇つぶし戦略研究所」は、本日も異常なし。
これにて、全任務を完了します。
(完)




