第140章 第4章:相互確証破壊 〜コタツの下の核ボタン〜
野本ともうします。
「平和」とは何でしょうか。
辞書を引けば「戦争や紛争がない状態」とあります。
しかし、国際政治学の観点、特に核戦略の歴史において、平和とは「仲が良いこと」ではありません。
それは、「お前が殴れば、私も殴り返す。結果、二人とも死ぬ」という究極の恐怖によって維持される、張り詰めた均衡状態を指します。
今日の学食のランチタイムは、まさにその冷戦の最前線となっていました。
午後1時の学食。
カレーとパスタの匂いが混じり合う喧騒の中で、私は異様な殺気を感じて足を止めました。
いつものテーブルで、友人の重子さんと山田くんが向かい合って座っています。
しかし、二人の間に会話はありません。
ただ、互いにスマートフォンを銃のように構え、画面を相手に向けたまま硬直しているのです。
「……何をしているのですか、お二人とも」
私がトレイ(Aランチ:唐揚げ定食)を置いて尋ねると、山田くんが視線を外さずに言いました。
「野本、止めるなよ。俺は今、コイツの社会的生命を終わらせるボタンに指をかけている」
山田くんのスマホ画面には、SNSの投稿作成画面が表示されています。
添付されている写真は、先日の飲み会で泥酔し、白目をむいて鼻に割り箸を突っ込んでいる重子さんの、あまりにも無惨な姿でした。
「山田……」
重子さんの声が低く唸りました。
「あんた、それアップしたら、マジで殺すわよ」
「うるせえ! お前が俺の『推し』のアイドルを『整形サイボーグ』って呼んだのが悪いんだ! 謝れ! 謝らないなら、この『デジタル・タトゥー』を全世界に放流してやる!」
「事実を言って何が悪いのよ! 謝らないわよ!」
一触即発。
山田くんの指が「投稿する」ボタンの上で震えています。
「……山田くん」
私は割り箸を割りながら、静かに告げました。
「君は今、**『SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)』**の発射ハッチを開けようとしています」
「エスエル……何?」
「SLBM。潜水艦から発射され、どこからともなく敵国の中枢を破壊する最終兵器です」
私は唐揚げを一つ摘みました。
「その写真は、重子さんの『大学生活』という都市を一撃で焦土に変える威力を持っています。彼女の品位、今後の恋愛、就職活動……すべてが灰になるでしょう」
「へっ、分かってるよ。だから降伏しろって言ってんだ」
山田くんが勝ち誇ったように笑いました。
「ですが、君は重大なリスクを見落としています」
私は重子さんを見ました。彼女の手元を。
「戦略原潜(SSBN)の真の恐ろしさは、攻撃力ではありません。**『第2撃能力(Second Strike Capability)』**を持っていることです」
「第2撃?」
重子さんが、無言で自分のスマホをひっくり返し、画面を山田くんに見せました。
そこには、ボイスレコーダーアプリの再生画面が表示されており、ファイル名は『山田の嘘.mp3』となっていました。
「……え?」
山田くんの顔が凍りつきました。
重子さんが冷徹な声で解説します。
「これは先週、あんたが親に電話してる時の盗み聞き音声よ。『母さん、単位取るための必須教材費が3万円かかるんだ。すぐ振り込んで!』って泣きついてたわよね。……その金でパチンコ行って、全部スッたことも知ってるわよ」
「ま、待て! 重子! それは……!」
「私がこの再生ボタン(発射スイッチ)を押して、あんたの母親のLINEに送信したらどうなるかしら? 仕送り停止? 勘当? それとも大学中退?」
山田くんの手から血の気が引いていくのが見えました。
「これが**『相互確証破壊(MAD:Mutual Assured Destruction)』**です」
私は味噌汁を啜りながら解説しました。
「山田くん。君が第1撃(変顔写真)を発射して重子さんを破壊したとしても、即座に重子さんからの第2撃(音声データ)が発射され、君の国(経済基盤)も確実に消滅します。勝者はいません。残るのは二つの廃墟だけです」
「くっ……! 卑怯だぞ重子! 親を巻き込むなんて!」
「卑怯? 先に核兵器(変顔)を持ち出したのはそっちでしょ」
重子さんの目は座っています。
「それに、私のミサイルはただの弾道弾じゃないわ」
重子さんはスマホを操作し、送信先リストを表示しました。
そこには『山田の母』だけでなく、『山田の彼女』、『バイト先の店長』という宛先が含まれていました。
「なっ……!?」
「私のミサイルは、**『MIRV(マーヴ:多弾頭)』**化されているのよ」
「マーヴ!?」
私は頷きました。
「MIRV(Multiple Independently-targetable Reentry Vehicle)。一つのミサイルに複数の核弾頭を搭載し、それぞれが別々の目標を同時に攻撃する技術です」
「重子さんの報復ミサイルは、君の『資金源(親)』、『恋愛関係(彼女)』、『社会的信用(バイト先)』を、たった一発で同時に蒸発させることができます」
「悪魔かお前は……!!」
山田くんが震え上がりました。
「さあ、どうするの山田司令官?」
重子さんが挑発します。
「ボタンを押すなら押しなさいよ。私の社会的死と引き換えに、あんたの人生もここで『THE END』よ」
山田くんの指が、プルプルと痙攣しています。
投稿ボタンを押したい。復讐したい。
しかし、その代償があまりにも大きすぎる。
汗がたらりと山田くんの額を伝い、テーブルに落ちました。
学食のざわめきが遠のき、このテーブルだけが真空の緊張感に包まれています。
まさに、1962年のキューバ危機における、ケネディとフルシチョフの対峙です。
数分、いや数時間のようにも感じる沈黙の後。
山田くんが大きく息を吐き出し、スマホをテーブルに伏せました。
「……撤収だ」
山田くんが掠れた声で言いました。
「この写真は、アルバムの奥底に封印する」
「賢明な判断ね」
重子さんもスマホを伏せました。
「音声データも、クラウドの深海に沈めておくわ。……あんたが妙な気を起こさない限りはね」
「……ちくしょう」
山田くんは悔しそうに頭を抱え、冷え切ったパスタをフォークで巻き取りました。
「状況終了」
私は唐揚げを口に運びました。
「お二人とも、素晴らしい理性の働きでした。戦略原潜の真の任務は、ミサイルを撃つことではありません。『撃ったらお前も死ぬぞ』と脅し合うことで、結果として誰も撃たせない。これこそが抑止力の精髄です」
山田くんが力なく言いました。
「野本……これのどこが平和なんだよ。毎日こんな爆弾抱えて生きていくのかよ」
「それが現代の安全保障です」
私はお茶を飲みました。
「信頼ではなく、恐怖によって維持される平和。味気ないですが、戦争状態よりはマシでしょう?」
重子さんがポテトを山田くんの皿に一つ放り込みました。
「ほら、食いなさいよ。仕送り止まったら困るんでしょ」
「……うるせえ。ありがとう」
二人は黙々と食事を続けました。
仲直りしたわけではありません。
ただ、互いの「核ボタン」の存在を確認し合い、不可侵条約を結んだだけです。
しかし、その危ういバランスの上で、今日のランチの平穏は守られました。
「さて」
私は空になった食器をまとめました。
「この冷戦構造が崩壊しないうちに、私は退避します。午後の講義がありますので」
「あ、待てよ野本」
山田くんが呼び止めました。
「お前は持ってないのかよ。核兵器」
「え?」
「俺らの弱みとかさ。持ってねーの?」
私はニッコリと微笑み、自分の胸ポケットのスマホを軽く叩きました。
「さあ、どうでしょう? 私の潜水艦は深海深く潜っているので、何を積んでいるかは秘密です」
「……怖っ」
「一番怒らせちゃいけないタイプだ」
二人が声を揃えました。
実際のところ、私のスマホに入っているのは、大量の軍事系電子書籍と、猫の画像だけなのですが。
「不確定性」もまた、一つの抑止力になるのです。
野本ともうします。
平和な食卓とは、見えないミサイルの上に成り立っているのかもしれません。
ごちそうさまでした。
(第5章へ続く)




