第139章 第3章:深海のブラックホール 〜サークル棟の戦略原潜〜
野本ともうします。
大学における「サークル棟」という場所は、治外法権の租界に似ています。
そこには、麻雀牌の音、腐ったミカンの匂い、そして留年した先輩たちの怨念が渦巻いています。
私たち「暇つぶしサークル」の部室も、そんな混沌の海に浮かぶ小舟の一つ。
しかし、今日、その小舟に撃沈の危機が迫っていました。
12月の曇天。
部室に入ると、電気もつけずに薄暗い部屋の隅で、小宮部長が体育座りをしていました。
橋本副部長も、死んだ魚のような目で床のシミを見つめています。
「……野本、来たのね」
部長の声が、深海から響くように重いです。
「どうしました? まるで爆雷攻撃を受けた後のUボートのような空気ですが」
「爆雷どころじゃないわよ」
部長が一枚の紙きれを私に差し出しました。
それは、学生課からの『通告書』でした。
『貴サークルは長期間にわたり活動実態が確認できません。つきましては、本日15時に立ち入り検査を行い、活動実績が認められない場合は、部室の使用権を剥奪します』
現在時刻、14時45分。
敵艦隊到達まで、あと15分。
「剥奪……つまり、廃部ですね」
私は冷静に眼鏡を押し上げました。
「何が冷静よ! 部室がなくなったら、どこでカップ麺食べればいいの!? 私たちのサンクチュアリが消滅するのよ!」
部長が頭を抱えます。
「どうしよう、今から何か活動する? 手影絵でもやる? でも15分じゃ練習もできないし……」
「無駄です」
私は断言しました。
「今から付け焼き刃の活動を見せたところで、学生課という名の対潜哨戒機は誤魔化せません。彼らは『成果』という魚雷を撃ち込んできます。我々には迎撃する手段(実績)がありません」
「じゃあ、終わりじゃない!」
「いいえ。戦い方は一つだけ残されています」
私は部室のカーテンを閉めきり、ドアの鍵を二重にロックしました。
「我々はこれより、**『戦略原子力潜水艦(SSBN)』**に移行します」
「エスエス……何?」
橋本副部長が顔を上げました。
「戦略原潜、通称『ブーマー』。攻撃型原潜とは違い、彼らの任務は敵を攻撃することではありません」
私は二人の前に立ち、厳かに宣言しました。
「彼らの唯一にして最大の任務は、**『生き残ること』**です」
「生き残る?」
「はい。もし祖国が核攻撃で滅びても、深海に潜む彼らだけは生き残り、敵国に報復の核ミサイルを撃ち込む。これを**『第2撃能力(Second Strike Capability)』**と言います。この能力があるからこそ、敵はうかつに手出しできない。これが抑止力です」
私は通告書を指差しました。
「いいですか。学生課(敵)の目的は、我々を『発見』し、『活動していない』という証拠を掴んで『破壊(退去)』することです。ならば、我々が取るべき戦術は一つ」
私は声をひそめました。
「**『存在しないこと』**です」
「存在しない?」
「我々はこの部室という深海の中で、誰にも見つからず、音も立てず、ただひたすら気配を消してやり過ごすのです。検査官が来ても、ここは『無人の倉庫』だと思わせる。存在が確認できなければ、彼らは攻撃(廃部命令)できません」
「つまり……居留守ってこと?」
「軍事用語では**『戦略パトロール』**と呼びます。総員、第一種隠密配置! 光と音を完全に遮断してください!」
私の号令で、部室は完全な闇に包まれました。
暖房も切りました。ファンの音が探知される恐れがあるからです。
三人は息を殺し、冷え切ったパイプ椅子に座り込みました。
チッ、チッ、チッ……。
壁掛け時計の音だけが、やけに大きく響きます。
「……ねえ、野本」
闇の中で部長が囁きました。
「これ、いつまで続けるの?」
「敵が去るまでです。SSBNのパトロールは通常2〜3ヶ月続きます。誰とも通信せず、誰にも位置を知らせず、ただ海の底を漂い続けるのです」
「3ヶ月もこんなことしてたら発狂するわよ」
「だからこそ、SSBNの乗員には強靭な精神力が求められるのです。世界を滅ぼすミサイルを背負いながら、孤独に耐える。それが『沈黙の艦隊』の誇りです」
その時、橋本副部長がモゾモゾと動きました。
「……あのさ、俺、トイレ行きたいんだけど」
「!!」
私は音を立てずに副部長の口を塞ぎました。
「バカなことを言わないでください! 今、ハッチを開ければ、その音で敵に捕捉されます!」
「でも漏れる! 限界深度だ!」
「……仕方ありません」
私は腕時計を見ました。14時52分。敵到達まであと8分。
「**『ブルー&ゴールド』**システムを採用します」
「何それ、色?」
「米海軍の戦略原潜は、1隻の潜水艦を最大限稼働させるため、『ブルー』と『ゴールド』の2チームの乗員が交代で乗り組みます」
私はドアを指差しました。
「橋本副部長。あなたは『ゴールド・クルー(休暇番)』です。敵が来る前に、静かに魚雷発射管(裏口)から退艦し、地上へ脱出してください」
「やった! じゃあ帰っていいの?」
「はい。ただし、外で捕まっても『この部室のことは知らない』とシラを切ってください。それがゴールド・クルーの義務です」
「了解!」
橋本副部長は音もなくドアを開け、忍者のような足取りで廊下へと消えていきました。
裏切りではありません。戦略的撤退です。
「……ずるい。私もゴールドがいい」
部長が恨めしそうに呟きました。
「ダメです、総理(部長)。あなたは核ミサイルの発射キーを持つ最高指揮官です。最後まで艦(部室)と運命を共にしてもらいます。私とあなたは『ブルー・クルー(実戦部隊)』です」
14時58分。
廊下の向こうから、コツ、コツ、コツ……と革靴の音が近づいてきました。
学生課の職員(対潜哨戒機)です。
「……来たわ」
部長が私の腕を掴みました。その手が震えています。
「静粛に(サイレント)。呼吸を浅くしてください。心臓の音も消して」
私は自分の眼鏡を外し、気配を殺しました。
私たちは今、部室ではありません。
海の一部、ただの「無」です。
コツ、コツ……ピタリ。
足音がドアの前で止まりました。
コン、コン。
ノックの音が、まるで爆雷のように室内に響きます。
『学生課ですー。暇つぶしサークルさん、いますかー?』
部長がビクッと反応し、反射的に「は、はい!」と言いそうになりました。
私は全力で部長の口を押さえ込みました。
(ダメです! 応答したら撃沈されます!)
目で合図を送ります。
部長も涙目で頷きました。
『……おーい、立ち入り検査ですよー』
ガチャガチャ。
ドアノブが回されました。
しかし、二重ロックされた扉は開きません。
私たちの心拍数はレッドゾーンに突入しています。
もし、彼がマスターキーを持っていたら?
もし、ドアの隙間から中の気配(アミン臭ならぬ、みかんの匂い)が漏れていたら?
永遠にも感じる数十秒。
ドアの向こうで、職員が何かを書き込む音が聞こえました。
『……いないな。鍵かかってるし』
『活動してないんじゃないですか? 物置代わりですよ、きっと』
『まあ、とりあえず今日のところは「不在」扱いでいいか。また来週来よう』
コツ、コツ、コツ……。
足音が遠ざかっていきます。
「…………」
「…………」
完全に音が聞こえなくなるまで、私たちは微動だにしませんでした。
これがSSBNの戦いです。
敵を倒すのではなく、敵に「何もなかった」と思わせる。
虚無こそが最強の防御。
「……状況、終了」
私は小さく呟き、部長の口から手を離しました。
「ぷはぁっ!」
部長が大きく息を吐き出し、その場に崩れ落ちました。
「し、死ぬかと思った……! 酸欠よ、酸欠!」
「お見事です、艦長。我々は生き残りました」
私はカーテンを少しだけ開け、夕暮れの光を入れました。
「この部室という核抑止力は、守られたのです」
「はぁ……はぁ……。でも、来週また来るって言ってたわよ?」
「その時はまた潜るだけです。あるいは、別の海域へ移動してパトロールを継続します」
部長は呆れたように笑いました。
「あんたねぇ……。こんな無駄なことに全力使って、バカみたい」
「無駄ではありません。何も起きないことこそが、平和の証拠ですから」
私は鞄からペットボトルのお茶を取り出し、部長に渡しました。
「勝利の美酒(補給物資)です」
「ぬるいわよ」
そう言いながらも、部長はお茶を一口飲み、深いため息をつきました。
「……ねえ、野本」
「はい」
「戦略原潜って、寂しくないの?」
「寂しいですよ。誰にも知られず、賞賛もされず。でも、誰かがやらなければ、世界は終わってしまうのです」
「ふーん。……ま、悪くないかもね。誰にも邪魔されないって意味では」
部長は椅子を並べて横になりました。
「私、このまま浮上せずに寝るわ。次の敵が来るまで起こさないで」
「了解しました。総員、休息配置」
私は文庫本を開きました。
薄暗い部室、静寂の海。
ここは世界の誰からも忘れられた場所。
けれど、私たちにとっては、確かに存在する「居場所」なのです。
野本ともうします。
深海のパトロールは続きます。
外の世界がどんなに騒がしくても、ここだけは静かな時間が流れています。
(第4章へ続く)




