第138章 第2章:逃げ場なきピンガー 〜温度の壁を突破せよ〜
野本ともうします。
潜水艦にとって、海水はただの水ではありません。
それは自分を隠してくれる「布団」であり、同時に、押しつぶそうとしてくる「圧力」でもあります。
今、バックヤードの男子更衣室という狭い海域で、一人の新人バイトがその布団を頭まで被り、世界の圧力から逃避しています。
しかし、残念ながら彼を追っているのは、慈悲深い女神ではなく、シフト表という鉄の掟を守る三人の対潜部隊です。
薄暗い廊下の突き当たりにある、灰色のスチール製のドア。
男子更衣室の前で、私たち三人は足を止めました。
「ここね……」
駆逐艦・亀山さんが、ドアノブをガチャガチャと回しました。
「鍵かかってるわ。田中くん、いるのー? ちょっと!」
亀山さんの声は普段より少し抑えめですが、それでも十分な音圧があります。
しかし、ドアの向こうからは何の返答もありません。
静寂。
ただ、換気扇の回る音だけが虚しく響いています。
「ねえ、本当にいるの?」
富山さんが不安そうに私を見ました。
「もしかして、本当に具合悪くて倒れてるとか……」
「……富山空尉。それこそが、敵潜水艦が利用している**『サーモクライン(水温躍層)』**です」
「サーモ?」
「海中には、冷たい水と温かい水の境目となる層があります。音波はこの層に当たると屈折・反射してしまうため、海上の船からは層の下にいる潜水艦が見えなくなります」
私はドアを指差しました。
「今、田中くんは『体調不良かもしれない』『寝ているかもしれない』という、我々の良心が生み出す『心理的な温度の壁』の下に隠れているのです。この壁がある限り、亀山さんの通常の呼びかけ(パッシブ・ソナー)は弾き返されます」
「なるほどね」亀山さんが舌打ちをしました。「『もし死んでたらどうしよう』と思わせて、私たちが強く出られないようにしてるわけね。小賢しい!」
「ですが、科学の力でその壁を無効化します」
私はスマホを操作しました。
「まず、彼が本当にそこにいて、かつ意識があるのかを確認します。**『磁気探知機(MAD:Magnetic Anomaly Detector)』**を作動させます」
「マッド? 何それ、狂ってるの?」富山さんが引いています。
「対潜哨戒機のお尻から突き出ている、地磁気の乱れを感知するセンサーです。海中に巨大な鉄の塊(潜水艦)があれば、磁場が歪みます。……現代社会において、人間が肌身離さず持っている最大の『金属塊』とは何か?」
私はスマホの画面を二人に見せました。
そこには、店舗用Wi-Fiの接続デバイス一覧が表示されていました(私はなぜか店長からパスワードを教わっています)。
「それはスマートフォンです」
画面の一行を指差します。
『Device: Tanaka_iPhone - Status: Active (Youtubeアプリ稼働中)』
「MAD反応あり! 田中くんのスマホは、現在この更衣室のルーター直下で、大容量の動画データを通信しています!」
「YouTube見てんじゃん!!」
亀山さんのこめかみに青筋が浮かびました。
「サボり確定ね! もう配慮はいらないわね!」
「はい。敵艦は生存しており、かつ悠長に動画鑑賞という『哨戒行動』を行っています。サーモクライン(良心の壁)は崩壊しました」
私は亀山さんを制しつつ、次の手順に移りました。
「ですが、まだドアを開けさせるには至っていません。次は、彼に『見つかった』ことを物理的に自覚させます。**『ディッピングソナー(吊り下げ式ソナー)』**を投下します」
「だから、何よそれ」
「ヘリコプターが空中でホバリングしながら、直接海中にマイクを吊り下げる戦法です。壁の向こうの彼に、逃げ場のない音を聞かせます」
私は通話アプリを開き、田中くんの番号をタップしました。
そして、スマホのスピーカー部分を、更衣室のドアの隙間(通気口)にピタリと押し当てました。
「……ソナー、発信」
トゥルルルルル……トゥルルルルル……
静かな廊下に、呼び出し音が響きます。
そして数秒後。
ドアの向こう側から、わずかに、しかし確実に音が聞こえてきました。
『♪〜(大音量のアイドルソングの着信音)』
ビクッ!
中で何かが跳ね起きるような物音がしました。
そして慌てて何かを操作する音。着信音がブツリと切れました。
「感あり(コンタクト)!」
私はスマホを耳から離しました。
「敵艦、ソナーに反応しました。現在、慌てて通信を切断(緊急潜航)しましたが、もはや手遅れです」
富山さんがクスクス笑いました。
「あちゃー、あんな爆音で鳴らしてたらバレバレだね」
「さあ、仕上げです、亀山艦長」
私はドアの横に退避し、射線を開けました。
「敵は今、恐怖で固まっています。『バレたか? いや、まだバレてないかも』という一縷の望みにすがっています。その希望を粉砕してください」
「了解!」
亀山さんは大きく息を吸い込み、右手の拳を振り上げました。
それはまさに、爆雷投下のスイッチを押す動作。
ドォォォォォォォン!!!
亀山さんの拳が、鉄のドアを全力で叩きました。
凄まじい轟音が廊下に響き渡ります。
これはノックではありません。打撃です。
「田中ァァァァァッ!! いるのは分かってんのよォォォッ!!!」
亀山さんの怒声が、更衣室の空気を震わせました。
「……これぞ、**『アクティブ・ソナー』**のピンガー音です」
私は震える富山さんに解説しました。
「映画では『ポーン……』という優雅な音で表現されますが、実際のアクティブ・ソナーは違います。船体に巨大なハンマーを叩きつけられたような、耳をつんざく金属音。聞けば精神が削られる、死刑宣告の音です」
ドン! ドン! ドン!
「YouTube見てないでさっさと出てきなさい! 給料泥棒!」
連続するアクティブ・ピンガーの衝撃波。
中の乗員(田中くん)にかかる水圧は、すでに限界深度を超えているはずです。
彼に残された道は、圧壊(メンタル崩壊)か、緊急浮上(降伏)か。
ガチャリ。
鍵が開く音がしました。
ゆっくりとドアが開き、中から顔面蒼白の田中くんが姿を現しました。
スマホを握りしめた手は震え、目は泳いでいます。
「す、すいません……ちょっと、お腹が痛くて……」
「お腹が痛いのに動画は見れるのね?」
亀山さんが仁王立ちで彼を見下ろします。
「洗い場、山積みよ。3分で着替えて戻りなさい。遅れたら……分かってるわよね?」
「は、はいっ!」
田中くんは弾かれたように中へ戻り、着替え始めました。
「状況終了」
私は眼鏡を直しました。
「敵潜水艦の無力化に成功しました。これより対潜部隊は解散し、各自の持ち場へ帰投します」
富山さんがため息をつきました。
「野本さん、怖いよ……。こんな追い詰め方されたら、私なら泣いちゃう」
「戦場において、慈悲は味方を殺しますから」
私たちはバックヤードを後にし、再び喧騒のホールへと戻っていきました。
戦果は上々。
しかし、これで終わりではありません。
私たちの戦い(シフト)は、まだあと4時間も残っているのですから。
野本ともうします。
逃げ場のない深海で、アクティブ・ソナーの音を聞く恐怖。
それを知っているからこそ、私は決してサボりません。
……少なくとも、Wi-Fiを切ってからサボるようにしています。
(第3章へ続く)




