第136章 第7章:終わりなき暇つぶし作戦 〜専守防衛の日常〜
野本ともうします。
「戦争は政治の延長である」と言ったのはクラウゼヴィッツですが、「大学生活は暇つぶしの延長である」と言ったのは、たぶんうちの小宮部長です。
私たちは日々、迫りくる「退屈」という名の敵と戦っています。
しかし、現代の戦争はもはや、鉄と火薬だけで行われるものではありません。
目に見えない情報こそが、勝敗を分けるのです。
冬の夕暮れ。
暇つぶしサークルの部室は、茜色に染まっていました。
小宮部長はスマホで猫の動画を見ながらニヤニヤし、橋本副部長は突っ伏して寝ています。
一見、平和な光景です。
しかし、私はホワイトボードの前に立ち、深刻な表情で腕を組んでいました。
「……皆さん、聞いてください」
私の低い声に、部長が顔を上げました。
「何よ、藪から棒に。また軍事講義?」
「はい。これまでの戦い(活動)を総括し、今後のドクトリン(指針)を策定する必要があります」
私はボードに大きく**『ハイブリッド戦』**と書きました。
「ハイブリッド?」
「現代の戦争は、物理的な戦闘と、非軍事的な手段が複雑に混ざり合っています。サイバー攻撃、偽情報の拡散、経済制裁……。これらを組み合わせた戦いを『ハイブリッド戦』と呼びます」
「ふーん。で、それが私たちの暇つぶしと何の関係があるの?」
「大いにあります」
私は眼鏡を光らせました。
「我々にとっての最大の敵は『暇』ですが、この敵は姿を変えて襲ってきます。単に遊べばいいというわけではありません。どの遊びが最もコストパフォーマンスが高く、かつ精神的充足(士気)を満たすか。これを見極めるには、**『情報戦』**を制する必要があります」
私はボードに別の図を描き足しました。
第1章でも触れた、中国人民解放軍の2024年4月の組織改編図です。
「思い出してください。中国は『戦略支援部隊』を解体し、新たに**『情報支援部隊』**を独立させました。これは何を意味するか。習近平主席(中央軍事委員会)の『目と耳』となり、全軍のネットワークを構築・維持する部隊を、最も信頼できる直轄部隊として置いたということです」
私は寝ている橋本副部長の肩を叩いて起こしました。
「橋本副部長。あなたは以前、情報支援部隊司令官に任命されましたね」
「んあ? ……ああ、Wi-Fi直せってやつ?」
「そうです。現代戦において、情報は弾薬よりも重要です。あなたがサボっている間に、我々は致命的な敗北を喫しようとしています」
「敗北って、何が?」
私はスマホを取り出し、画面を二人に見せました。
それは大学の学食の公式X(旧Twitter)アカウントの投稿でした。
『【重要】本日、食材配送トラブルのため、大人気のAランチ(唐揚げ定食)およびBランチ(ハンバーグ定食)は、17:30をもって販売終了となります』
現在時刻、17:25。
「なっ……!?」
小宮部長がガタッと椅子を鳴らして立ち上がりました。
「唐揚げが終わる!? 私、今日の夕飯は唐揚げって朝から決めてたのに!」
「嘘だろ、ハンバーグもかよ!」橋本副部長も目を覚ましました。
「これが**『シグナル・インテリジェンス(SIGINT)』**の重要性です」
私は冷静に言いました。
「敵(学食)の通信を傍受し、状況を把握する。もし私がこの情報を掴んでいなければ、我々は10分後に学食へノコノコと出向き、売り切れの札の前で絶望的な敗北を味わうところでした」
「野本! あんたなんで早く言わないのよ!」
部長が叫びました。
「講釈垂れてる場合じゃないでしょ! あと5分しかないじゃない!」
「慌てないでください、総理(部長)。情報は、使うタイミングが重要なのです」
私は腕時計を見ました。
「ここから学食までは直線距離で300メートル。通常の歩行速度では間に合いませんが、即応機動連隊(我々)が全力で展開すれば、3分で到達可能です」
「走るわよ! 総員、第一種戦闘配置!」
部長が号令をかけました。
「目標、学食券売機! 作戦名は『オペレーション・カラアゲ』! 遅れた奴は置いていく!」
「了解!」
私たちは部室を飛び出しました。
夕暮れのキャンパスを、三人の影が疾走します。
「野本、あんた足遅い!」
「私は長距離砲兵(後方支援)タイプなのです!」
「言い訳すんな! 走れ!」
冷たい風が耳元で唸ります。
ただの夕飯のために、なぜこれほど必死になれるのか。
それは、私たちが「平和」という名の、あまりにも退屈で、けれど愛すべき日常を守っているからかもしれません。
息を切らして学食に滑り込み、券売機のボタンを押したのは17:29。
ギリギリの勝利でした。
熱々の唐揚げ定食を前に、私たちはテーブルを囲んでいました。
窓の外はもう真っ暗です。
「はぁ……勝ったわね」
部長が唐揚げを頬張りながら、満足げに言いました。
「野本、今回の勝利はあんたの情報のおかげよ。褒めて遣わす」
「恐縮です」
私は味噌汁を啜りました。
「しかし、これは局地的な勝利に過ぎません。明日にはまた、新たな『暇』と『空腹』が攻めてきます」
「いいじゃない」
橋本副部長がハンバーグを切りました。
「どうせ俺ら、暇なんだから。毎日が演習みたいなもんでしょ」
そう。
私たちは軍隊ではありません。
世界を救うことも、国境を守ることもありません。
けれど、この小さなテーブルの上で、唐揚げの所有権を巡って争ったり、コタツの領土を主張し合ったりすることは、私たちにとってのかけがえのない「専守防衛」なのです。
「さて、食後の作戦ですが」
私は箸を置きました。
「図書館で新しい『兵器図鑑』が入荷されたとの情報を入手しました。次期主力装備(暇つぶしのネタ)の選定を行いたいのですが」
「却下」
部長が即答しました。
「食後は『戦略的休養』と決まっているの。部室に戻って寝るわよ」
「了解しました。では、撤収作業に移ります」
私たちは食器を片付け、夜のキャンパスへと歩き出しました。
星が綺麗に見えます。
あの星の向こうには、宇宙軍が展開しているのでしょうか。
深海には潜水艦が、空には戦闘機が。
世界は複雑な軍事システムで動いています。
でも、今の私に必要なのは、最新のステルス機でも、核ミサイルでもありません。
明日もまた、この仲間たちと「野本ともうします」と言い合える、平穏な日常だけです。
「野本、置いてくわよ」
「あ、待ってください。重量過多(食べ過ぎ)で機動力が低下しています」
野本ともうします。
私の、そして私たちの「暇つぶし戦略研究所」は、本日も異常なし。
これにて、状況終了。
(完)




