第135章 第6章:スプリント・アンド・ドリフト 〜教授の目から逃れろ〜
野本ともうします。
広大な海洋において、潜水艦は「深海の忍者」と呼ばれています。
しかし、どんなに優れた忍者でも、天敵は存在します。
海面上の駆逐艦、空からの対潜ヘリコプター、そして大学という海域においては、「課題未提出者を狩る教授」がそれに当たります。
私たちは今、魚雷(単位剥奪)の射程圏内を航行しているのです。
午後の講義棟、長い廊下。
私、同級生の重子さん、そして副部長の橋本さんの三人は、壁際を這うように歩いていました。
「ねえ、野本さん。なんでこんなコソコソ歩かなきゃいけないの?」
重子さんが小声で文句を言いました。
「普通に歩こうよ。怪しすぎるって」
「静粛に」
私は人差し指を唇に当て、前方を睨みつけました。
「現在、我々の前方50メートルに、敵性目標を確認。ロシア文学演習の鬼瓦教授です」
「げっ! マジで!?」
橋本副部長が色めき立ちました。
「俺、先週のレポート出してない! 顔合わせたら絶対『橋本君、単位足りてるのかね?』って詰められる!」
「私も出してない!」と重子さん。
「安心してください。私も白紙です」
「いばるなよ!」
廊下の向こうでは、白髪の鬼瓦教授が、鋭い眼光で周囲をスキャンしながらゆっくりと歩いてきます。
その姿は、海中の異物を探知しようとする駆逐艦そのものです。
「聴音室より報告。敵艦との距離、縮まっています。このままでは捕捉されます」
私が淡々と告げると、重子さんがパニックになりました。
「どうすんの!? 教室まであと少しだけど、隠れる場所なんてないよ!」
「慌てないでください。我々には、潜水艦の常とう手段である**『スプリント・アンド・ドリフト』**戦法があります」
「スプリント……何?」
「いいですか、よく聞いてください」
私は眼鏡の位置を直し、作戦を説明しました。
「敵の聴音能力(教授の視力と聴力)には限界があります。教授が他の学生に挨拶したり、掲示板を見たりしている間は、こちらの存在に気づきにくい『盲点』が生まれます」
私は教授を指差しました。
「あの瞬間、我々は全速力で移動します。しかし、走れば当然、足音や気配が大きくなります」
「そりゃそうでしょ」
「なので、教授がこちらを向く気配を見せたら、即座に停止し、壁と同化して気配を消します(ドリフト)。慣性航行で音を出さずにやり過ごすのです。これを繰り返して、敵の探知網をくぐり抜けます」
「だるまさんが転んだ、じゃん!」
「軍事用語では『スプリント・アンド・ドリフト』です。総員、第一種戦闘配置。靴紐を確認してください」
その時、前方の鬼瓦教授が、通りかかった別の教授と立ち話を始めました。
「あ、田中先生、例の件ですが……」
「今です! 機関始動! 全速前進!」
私の号令と共に、三人は猛ダッシュしました。
廊下を音を立てないように、しかし素早く駆け抜けます。
距離を一気に20メートル詰めました。
しかし、教授たちの会話が途切れました。
鬼瓦教授がふと、こちらを振り返ろうとします。
「機関停止! ドリフト!」
キュッ。
私たちは一斉に足を止め、廊下の掲示板の前に直立不動で並びました。
あたかも「休講情報を熱心に確認している学生」のフリをして、微動だにしません。
教授の視線が、私たちの背中を舐めるように通過していきます。
心臓の音が聞こえそうなほどの緊張感。
しかし、教授は私たちを「ただの風景」と認識したようで、再び前を向いて歩き出しました。
「……ふぅ。セーフ」
橋本副部長が冷や汗を拭いました。
「心臓に悪いわ、これ」
「まだです。敵艦との距離は至近。次のスプリントで、あそこの自動販売機の陰(死角)に飛び込みます」
「了解。次で決めるわよ」重子さんが構えました。
教授が手帳を取り出し、何かを確認し始めました。視線が下に落ちています。
「今だ! スプリント!」
タタタタタッ!
私たちは再び駆け出しました。
目指すは「BOSS」と書かれた青い自動販売機の裏側。あそこまで行けば安全圏です。
しかし、ここで予期せぬトラブルが発生しました。
橋本副部長の履いている安物のスニーカーが、床との摩擦で派手な音を立てたのです。
キュッ! キュイッ!!
「!!」
私は走りながら叫びました。
「橋本艦! **キャビテーション(空洞現象)**ノイズが大きすぎます! 敵に探知されます!」
「しょうがないだろ! 安い靴なんだから!」
その音に反応し、鬼瓦教授がバッと顔を上げました。
眼鏡の奥の目が、獲物を見つけた鷹のように光りました。
「ん? そこにいるのは……」
「まずい! アクティブ・ソナー照射! ロックオンされました!」
私たちは自動販売機の前まで滑り込みましたが、完全に隠れきれていません。
このままでは一網打尽です。
「野本さん、どうするの!? もう見つかる!」重子さんが私の袖を引きます。
私は自動販売機の側面を指差しました。
「最後の手段です。**『サーモクライン(水温躍層)』**を利用します!」
「はぁ!?」
「海中には、水温が急激に変化する『層』があります。音波はこの層に当たると屈折・反射し、ソナーが無効化される性質があります。潜水艦はこの『温度の壁』の下に隠れるのです」
「だから何!?」
「この自動販売機の排熱ダクトからは、温かい空気が排出されています! この周囲には人工的なサーモクライン(温度差)が発生しているはずです! この温風の中に身を潜めれば、音と光(視線)が屈折して、教授からは我々が見えなくなる……はずです!」
「なるわけないでしょ!!」
「理論上は可能です! 全員、自販機の裏の温かい風に身を沈めて!」
私たちは自販機の裏の狭いスペースに、すし詰め状態で隠れました。
ブオォォォ……というファンの音と、生温かい風が顔に当たります。
コツ、コツ、コツ……。
教授の足音が近づいてきます。
まさに、頭上で爆雷を抱えた駆逐艦が旋回している恐怖。
「……おかしいな。今、学生が走る音がしたんだが」
教授の声がすぐそこで聞こえます。
「橋本君のような気配がしたが……」
私たちは息を殺しました。
自販機の排熱よ、我々を守りたまえ。
物理法則をねじ曲げてでも、光を屈折させたまえ。
コツ、コツ……ピタリ。
足音が自販機の前で止まりました。
「ああ、あったあった」
ガチャン、と小銭を入れる音がしました。
教授は単にコーヒーを買いに来ただけでした。
ゴトン。
缶コーヒーが落ちる音が響き、プシュッという音と共にコーヒーの香りが漂います。
教授はそのまま、ご機嫌な様子で立ち去っていきました。
「……状況、クリア」
私は自販機の裏から眼鏡だけを出して確認しました。
「敵艦、遠ざかります」
「はぁぁぁ……死ぬかと思った……」
橋本副部長がその場にへたり込みました。
「野本、お前のサーモクライン理論、絶対嘘だろ」
「結果として敵は見失いました(ロスト)。作戦成功です」
私は埃まみれになった服を払いました。
「これが潜水艦戦です。見えない敵と戦い、見えない壁を利用する。高度な知能戦(心理戦)の勝利ですね」
「単に教授が喉乾いてただけじゃん」と重子さん。
しかし、私たちは生き残りました。
レポート未提出という「負債」を抱えたまま、私たちは再び廊下という海原へと漕ぎ出しました。
「さて、次の講義室まではあと30メートル」
私は前を見据えました。
「次は『デコイ(おとり)』戦術を試しましょう。橋本さんが廊下の真ん中で踊っている間に、私たちが駆け抜けます」
「却下だ!!」
野本ともうします。
私たちの潜航生活は続きます。
単位という名の浮上許可が下りるその日まで。
(第7章へ続く)




