撃たなかった魚雷――深海の代償
## エピソード33 深海の代償――撃たなかった魚雷
昭和二十年四月十九日、午前九時四十四分。
マリアナ諸島テニアン島東方海域。
「敵駆逐艦、探信頻度増加!」
「そうりゅう」発令所に、水測長・石倉先任伍長の声が鋭く響いた。
ヘッドセットの向こうでは、フレッチャー級駆逐艦のアクティブソナーが、短い間隔で海中へ探信音を叩き込んでいる。
ピン――。
ピン――。
そのたびに、冷たい音が耐圧殻を通り抜けるように感じられた。
竹中二等海佐は即座に命じた。
「針路、南東。伊58とは逆方向へ離脱」
「速力は?」
「上げるな」
副長・深町が一瞬だけ顔を上げる。
「追いつかれる可能性があります」
「速力を上げれば、こちらの音が増える」
竹中は淡々と答えた。
「今は逃げるんじゃない。消える」
「了解」
「深度維持。不要補機停止。艦内静粛」
発令所から余計な音が消えていく。
ポンプ。
送風機。
不用な機器。
必要最低限だけが残る。
現代潜水艦だからといって、爆雷が無効になるわけではない。
至近で爆発すれば、外部センサーや配管を損傷する。
衝撃で電装品が故障する。
小さな浸水でも、この時代には交換部品も専用修理施設もない。
一度の軽微な損傷が、戦闘能力そのものを奪う。
「爆雷投下音!」
遠方。
ドン――。
少し間を置いて、
ドドドンッ――!
船体が僅かに震えた。
「距離あり。直接危険なし」
石倉が報告する。
竹中は頷いた。
「伊58側を叩いている可能性は」
「あります」
発令所に重い沈黙が落ちる。
橋本以行中佐たちは、九五式魚雷を撃った直後だ。
敵駆逐艦にとって、最優先の目標は発射位置に近い伊58である可能性が高い。
だが竹中には、援護に戻る考えはなかった。
「艦長」
若い水測員が言う。
「十八式魚雷で駆逐艦を叩けば――」
「撃たない」
即答だった。
「ですが」
「伊58を助けるために、こちらまで位置を晒すのか」
水測員が黙る。
「撃てば一本減る」
竹中は続けた。
「しかも駆逐艦を一隻沈めても、残りが追ってくる」
十八式魚雷は、この時代では補充不能。
使うべき標的は、戦術的価値の大きい相手に限られる。
「今の任務は、伊58と我々がそれぞれ生き残ることだ」
深町が低く復唱した。
「生還優先」
「そうだ」
***
海面上。
被雷したブルックリン級軽巡洋艦は、急激に傾斜を増していた。
右舷前部と中央部。
二か所から海水が流れ込み、応急班が排水と隔壁閉鎖を続けている。
だが浸水量が上回っていた。
護衛のフレッチャー級三隻は役割を分けた。
一隻が被雷艦へ接近。
海面へ投げ出された乗員の救助を開始する。
残る二隻は対潜掃討。
一定間隔でアクティブソナーを打ち、推定位置へ爆雷を投下する。
「潜水艦を逃がすな!」
だが海中には二隻いる。
どちらが撃ったのか。
どこへ逃げたのか。
米側には分からない。
未来の潜水艦「そうりゅう」が、伊58と逆方向へ離脱したことで、探索範囲はさらに広がった。
それだけで護衛側の対潜行動は複雑になる。
***
午前九時五十七分。
「探信音、遠ざかっています」
石倉が言った。
「敵駆逐艦、北西へ移動」
深町が息を吐く。
「伊58を追っている」
竹中は答えなかった。
助かったと喜べる状況ではない。
その代わり、静かに命じた。
「さらに南東へ。深度を少し下げる」
「了解」
「通信は」
「完全沈黙を維持します」
「それでいい」
伊58が無事かどうかは分からない。
確認のために電波を出すこともしない。
それが潜水艦戦だった。
互いに助け合う。
しかし互いの位置を守るため、必要なら沈黙する。
***
午前十時五分。
遠距離から重い水中音が伝わった。
一度。
二度。
やがて、長く続く破壊音。
石倉が耳を澄ませる。
「大型艦、推進音消失」
数秒。
「構造破壊音。沈没の可能性、高い」
深町が竹中を見る。
「軽巡ですか」
「おそらく」
それだけだった。
歓声は上がらない。
竹中は撃沈確認のために反転しなかった。
潜望鏡も上げない。
その必要がない。
「戦果記録は推定扱い」
「了解」
「命中二。大型艦一、沈没可能性。敵駆逐艦三、健在」
深町が記録する。
「そうりゅう、魚雷消費ゼロ」
竹中が付け加えた。
「そこが一番重要だ」
未来の魚雷を一本も使わず、
現代のソナーが敵を先に見つけ、
昭和の潜水艦が自らの技量で雷撃した。
それだけで、米軍は一隻の大型艦を失い、三隻の駆逐艦を救助と対潜掃討へ縛りつけられた。
輸送路には新たな警戒が必要になる。
速度も落ちる。
護衛配置も変わる。
それが、この作戦の本当の成果だった。
「艦長」
深町が言う。
「勝ったのでしょうか」
竹中は首を振った。
「一隻沈めただけだ」
そして暗い海を見つめる。
「勝ったかどうかは、もっと後で決まる」
午前十時十二分。
「そうりゅう」は敵護衛群との接触を切った。
伊58の消息はまだ分からない。
敵も残っている。
海も続いている。
ただ一つ確かなのは、
撃つことよりも、
撃ったあとに生き残ることの方が、
はるかに難しいということだった。
そして「そうりゅう」は、
撃たなかった一本を、
次の戦いのために残した。




