六本の航跡――伊58、雷撃開始
## エピソード32 六本の航跡――伊58雷撃
昭和二十年四月十九日、午前九時三十二分。
マリアナ諸島テニアン島東方海域。
伊号第五十八潜水艦。
艦内は、油と汗と蓄電池の匂いが混じる重い空気に満たされていた。
発令所中央。
艦長・橋本以行中佐は潜望鏡の把手を握ったまま、静かに待っている。
未来から来た潜水艦「そうりゅう」から届いたのは、わずかな符号だけだった。
――敵あり。
――接近。
――方位区画。
――針路変更。
それ以上は何もない。
距離も。
速力も。
発射角も。
未来側は教えてこなかった。
橋本には、それがかえってありがたかった。
雷撃は、自分たちの仕事である。
「潜望鏡深度」
「潜望鏡深度、了解」
排水量二千トンを超える伊58の艦体が、慎重に深度を上げていく。
不用意に艦首を持ち上げれば、艦影を晒す。
浮上量は最小限。
橋本が潜望鏡を上げた。
一周。
二周。
灰色の海面。
低い雲。
白波。
そして――。
「見えた」
右舷前方。
大型艦一隻。
その周囲に駆逐艦。
橋本は一度潜望鏡を下ろす。
「敵軽巡一。護衛駆逐艦三」
航海長が記録を取る。
再び潜望鏡。
「方位……」
時計が進む。
数十秒。
もう一度。
敵艦の方位変化から、おおよその針路と速力を割り出す。
未来の計算機はない。
電子海図もない。
統合ソナーもない。
あるのは潜望鏡、距離感、時計、方位盤、そして経験だった。
「速力十四ノット前後」
橋本が言う。
「針路、ほぼ西北西」
水雷長が雷撃盤へ数値を入れる。
「射距離、およそ三千五百メートルまで接近可能」
橋本は黙って考えた。
護衛駆逐艦三隻。
撃てば必ず反撃される。
外せば、次はないかもしれない。
だが敵護衛群は、まだこちらの存在に気づいていない。
それだけで十分だった。
「魚雷戦用意」
低い号令が艦内を走る。
「一番から六番、発射管注水」
「注水!」
バルブが開く。
圧縮空気の音。
発射管へ海水が満たされる。
前部魚雷室では、九五式魚雷六本が静かに待っていた。
水雷長が橋本を見る。
「艦長。六本すべて使用しますか」
「使う」
「目標、一隻に?」
「護衛を避ける時間はない」
橋本は短く答えた。
伊58の魚雷は貴重だった。
だが、未来艦隊とは事情が違う。
伊58には、この時代の補給体系がある。
そして何より、この攻撃は単なる一隻撃沈ではない。
米軍に、
**日本潜水艦がなお海上交通路へ出てくる**
と認識させる意味がある。
「発射後、即座に深度を取る」
「了解」
午前九時四十一分。
最後の潜望鏡観測。
「敵針路変化なし」
橋本が潜望鏡を下ろした。
「発射!」
一番。
圧縮空気の衝撃。
一本目の九五式魚雷が暗い海へ飛び出した。
「二番、発射!」
「三番!」
「四番!」
「五番!」
「六番!」
六本。
艦首から次々と魚雷が離れていく。
白い航跡は、深い海の中では見えない。
しかし乗員たちは知っている。
数分後、その先にいる敵へ届く。
「潜望鏡収納!」
「急速潜航ではない。静かに深度を取れ」
橋本が命じた。
無用な騒音を出さない。
敵駆逐艦が反応する前に、射点から離れる。
伊58はゆっくりと深度を下げた。
***
同じ頃。
「そうりゅう」発令所。
石倉がヘッドセットを押さえた。
「遠距離、短い過渡音」
竹中二等海佐が振り向く。
「数は」
「六回」
発令所の空気が変わった。
竹中は静かに言った。
「発射したな」
誰も歓声を上げなかった。
彼らには、命中するかどうかまだ分からない。
未来のソナーも、魚雷が敵艦に当たることまで保証しない。
ただ待つ。
数十秒。
さらに数十秒。
そして――。
ドン。
海中を伝う低い衝撃。
水測員が顔を上げる。
「爆発音一」
その直後。
ドォン――!
二発目。
「命中音、二!」
小さなどよめきが走った。
竹中はすぐに右手を上げた。
「喜ぶな」
発令所が静まる。
「護衛が来るぞ」
***
海面上。
ブルックリン級軽巡洋艦の右舷前方で、巨大な水柱が立ち上がった。
最初の魚雷が船体外板を破り、前部区画へ海水を流し込む。
「雷撃!」
艦内警報が鳴る。
乗員が応急部署へ走るより早く、
第二の魚雷が船体中央寄りへ突入した。
轟音。
鋼板が歪む。
配管が破断する。
機関区画へ浸水。
軽巡は大きく震え、急速に右舷へ傾き始めた。
護衛のフレッチャー級三隻が即座に散開する。
一隻は被雷艦へ。
二隻は左右へ高速展開。
海中へ向けてアクティブソナーを打ち始める。
ピン――。
ピン――。
冷たい探信音が海底へ伸びていく。
「そうりゅう」発令所。
石倉が鋭く叫ぶ。
「敵駆逐艦、探信頻度増加!」
竹中は即座に命じた。
「伊58とは逆方向へ離脱準備」
副長・深町が復唱する。
「離脱準備」
竹中は最後に言った。
「ここからが本番だ」
魚雷を撃つ瞬間より、
撃ったあとに生き残る方が難しい。
伊58の六本の航跡は、
敵艦へ届いた。
そして同時に、
二隻の日本潜水艦を、
米駆逐艦の狩場へ投げ込んだ。




