孤独な潜航――そうりゅう、最後の矢
昭和二十年四月十七日、午後一時。
東シナ海。
戦艦「大和」を中心とする日米二つの時代が入り混じった異様な艦隊の左舷深く、水深八十メートル。
海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦「そうりゅう」は、スターリング機関を用いたAIP――非大気依存推進による低速潜航を続けていた。
海面では強い風が波頭を砕いていたが、その騒乱もここまでは届かない。
発令所を満たすのは空調装置の低い送風音、補機類の微かな振動、そして水測員が耳を澄ませるソナー機器の電子音だけだった。
「通信室より艦長」
赤色灯の下、竹中二等海佐が顔を上げた。
「『いずも』より中継電文。最優先指定です」
通信員から差し出された紙片を受け取り、竹中は黙って目を走らせた。
数行を読んだところで、その表情が固まった。
副長の深町二佐が異変を察する。
「艦長?」
竹中は無言のまま紙を差し出した。
そこに記されていたのは、米軍通信の傍受解析から得られた断片的な情報だった。
マンハッタン計画の優先順位が急速に引き上げられていること。
複数発の特殊爆弾を可能な限り早期に実戦配備しようとする動き。
そして、修理完了後の重巡洋艦「インディアナポリス」を、太平洋横断の特殊輸送任務へ投入する可能性を示す通信。
確定情報ではない。
米軍暗号を完全に解読したわけでもなかった。
しかし、未来から来た海上自衛隊には、そこから先を推測するための知識があった。
インディアナポリス。
その艦名を見ただけで、発令所にいた者たちは意味を理解した。
「……原爆輸送」
深町が低く呟いた。
竹中は頷いた。
「史実では数か月先だ」
机上の海図へ視線を落とす。
「だが我々が歴史を変えた。米軍が計画を前倒ししている以上、同じ日程になる保証はない」
深町は紙片を握ったまま黙り込んだ。
未来を知ることは、未来を支配することではない。
むしろ一度歴史へ介入した瞬間から、彼らの持つ史実は急速に価値を失い始めていた。
知っているのは、かつてそうだった未来。
これから起こる未来ではない。
竹中はコンソールへ向き直った。
「佐久間。機関状況」
機関科の佐久間が帳票を開く。
「AIP用液体酸素、残量六十二パーセント」
竹中の眉が僅かに動く。
「低速潜航を継続するだけなら余裕はあります。ただし、これは航続距離そのものを意味する数字ではありません。問題は軽油と蓄電池です」
佐久間は別の欄を指した。
「坊ノ岬から那覇沖までの高速機動、警戒航行でディーゼル燃料を予定以上に使っています。AIPだけでは高速航行も、長期間にわたる電力需要のすべてを賄うこともできません。どこかではシュノーケル航走による充電が必要になります」
「米軍の哨戒圏内で、か」
「はい」
佐久間は短く答えた。
シュノーケルを海面へ出せば、完全な隠密状態ではなくなる。
この時代の対潜レーダーが現代のものほど高性能でなくとも、米軍は航空機も駆逐艦も大量に持っている。
発見されない保証などない。
「兵装は」
水測長の石倉が答えた。
「十八式魚雷、残四本。予備なし」
発令所が静まり返った。
四本。
二十一世紀の誘導魚雷であっても、四本しかなければ戦術の自由は急激に狭まる。
一隻の大型艦を狙うだけなら十分に見える。
だが、敵が護衛駆逐艦を複数伴っていれば話は違う。
発射位置へ入るまでに発見される可能性。
護衛艦へ魚雷を割かなければならない可能性。
攻撃後の反撃。
そして、何より――撃った魚雷は二度と戻らない。
「四本で、四発の原爆を止める……」
深町が吐き出すように言った。
竹中は首を横に振った。
「そう考えるな」
「しかし――」
「魚雷一本と原爆一発を交換する戦いじゃない」
竹中は海図台へ歩み寄った。
「我々が本当に止めなければならないのは、爆弾そのものだけではない。輸送経路だ」
鉛筆で日本本土、フィリピン、マリアナ諸島を結ぶ海域をなぞる。
「インディアナポリスが使われるとしても、それは今日でも明日でもない。数週間、あるいは数か月先になる可能性が高い」
深町が顔を上げた。
「では、今からマリアナへ?」
「行かない」
即答だった。
意外そうな空気が発令所を走る。
竹中は続けた。
「今ここから全速力でマリアナへ走れば、敵がまだ出航してもいない海域で燃料と液体酸素を使い果たす。史実の航路一点に張り付くのも同じだ。歴史はもう動いている」
竹中の指が海図の一点から離れ、広い海域を円で囲んだ。
「必要なのは待伏せではない。監視網だ」
「監視網……」
「米軍の交通量、護衛艦の行動、哨戒機の時間帯、主要航路。それらを今から記録する」
現代のセンサーを持つそうりゅうだからこそできる。
一隻一隻を沈める必要はない。
スクリュー音を採取する。
艦種を分類する。
航路の傾向を読む。
対潜駆逐艦がどこを重点的に通るかを知る。
数か月後、本当に特殊輸送が動き始めた時に初めて、その蓄積が牙となる。
竹中はさらに別の一点を指した。
「そして伊五十八」
深町の目が僅かに見開かれた。
「橋本中佐の艦ですか」
「ああ」
未来の歴史では、伊五十八はインディアナポリスを撃沈する。
だが竹中が見ていたのは、その史実をそのまま再現することではなかった。
「我々の十八式魚雷は四本しかない。しかし、この時代の日本潜水艦には魚雷がある」
「九五式魚雷……」
石倉が呟く。
「そうだ」
竹中は頷いた。
「彼らには牙がある。我々には目がある」
ただし、現代潜水艦のソナーデータを一九四五年の潜水艦へそのまま流し込むことはできない。
通信方式も情報処理能力も違う。
海中で高精度なデータリンクを形成するなど論外だった。
必要になるのは、もっと単純な仕組みだった。
概略方位。
敵接近。
針路変更。
危険方向。
あらかじめ取り決めた数種類の短い信号だけでよい。
最終的に潜望鏡を上げ、敵を見て、速力を判断し、雷撃諸元を決めるのは伊五十八自身だ。
「未来の潜水艦が九五式魚雷を誘導するわけではない」
竹中は言った。
「敵と出会う確率を上げるだけだ」
深町がゆっくり頷いた。
「未来の眼と、昭和の牙」
「そういうことだ」
だが、その構想にも問題は山ほどあった。
まず伊五十八といつ、どこで接触するか。
帝国海軍へどう説明するか。
互いの潜水艦を敵と誤認しないための識別方法。
通信すれば敵にも発見される。
それ以前に、数か月先までそうりゅう自身が生き残っている保証すらなかった。
液体酸素。
軽油。
蓄電池。
食料。
清水。
二酸化炭素吸収剤。
機器の交換部品。
魚雷以外にも、潜水艦を戦闘可能な状態に保つために必要なものは無数にある。
しかも、どれ一つとして補充できない。
「艦長」
佐久間が静かに言った。
「数か月先まで戦力として残るつもりなら、今までと同じ運用はできません」
「ああ」
竹中は答えた。
「だから、今日から変える」
海図台に一冊の帳簿を置いた。
「戦わないための哨戒に切り替える」
乗員たちが竹中を見る。
「不必要な高速航行を禁止。アクティブソナーは緊急時以外使用しない。十八式魚雷は自艦の生存に必要な場合を除いて撃たない。収集すべきは敵艦の数ではなく、航路と音紋だ」
石倉が力強く頷いた。
「音響ライブラリを作り直します。フレッチャー級、巡洋艦、輸送船、タンカー。航行速度別にも分類できます」
「頼む」
竹中は最後に復号紙片へ目を落とした。
広島。
長崎。
小倉。
東京。
紙の上では、ただの地名だった。
だが、その一つ一つの下に、何十万、何百万という人間の暮らしがある。
それを救えるなどとは思っていない。
未来を知っているからといって、原爆を必ず止められるわけでもない。
輸送艦を沈めたとして、米国が別の輸送方法を選ばない保証もない。
一度止めれば戦争そのものが終わるわけでもない。
それでも。
「深町」
「はい」
「片倉司令へ返信」
通信員が鉛筆を構える。
竹中は一語ずつ告げた。
「『そうりゅう、即時長距離攻撃行動には移らず』」
深町が竹中を見る。
「『残存兵力を保存。米海上交通路の音響情報収集を開始。伊五十八との将来協同を検討する』」
短い沈黙。
そして最後に付け加えた。
「『原爆輸送阻止の機会を、今日の焦りで失わない』」
通信員が復唱する。
竹中は海図へ視線を戻した。
未来の潜水艦が持つ魚雷は、あと四本。
海の向こうで生産されようとしている原子爆弾は、四発。
数字だけを見れば、奇妙な符合だった。
だが戦争とは、そんな単純な算術ではない。
一発の魚雷を持っていても、撃つ位置にいなければ意味はない。
敵の位置を知っていても、そこへ到達する燃料がなければ意味はない。
そして最も重要なのは――敵がいつ来るかを知らなければ、待つことさえできないということだった。
竹中は静かに命じた。
「現針路維持。速力三ノット」
「速力三ノット、宜候」
「AIP出力、必要最小限。水測、全周パッシブ監視を継続」
「了解」
そうりゅうは速度を上げなかった。
敵を求めて走り出すこともしなかった。
四本しか残っていない矢を抱えたまま、暗い海の底へ身を沈め、まだ姿さえ見えない数か月先の敵を待つための準備を始めた。
未来の知識が教えてくれるのは、運命ではない。
ただ、破局が来る方向だけだった。
その方向を見失わず、撃つべき一瞬まで生き残ること。
それが今、竹中と「そうりゅう」に課された新たな戦いだった。




