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醜さで選んだ愛は美しいのか  作者: アポロ


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中編

 あれは、アンナと彼が間もなく十五になる頃だった。


『アンナ、僕と結婚してくれる?』


 流石に「親分」「子分」と呼び合う事はなくなったが、アンナと彼は友達だった。

 異性だと自覚して以前より少し距離を置く程度。互いに恋情なんて欠片もなかった。


 だから彼からの求婚は、アンナにとって青天から雷が落ちてきたような衝撃だった。


『……姓を、捨てるって事?』

『うん……。頑張っても兄上達みたいに強くなれないのに、身長だけ越えちゃったし……。こんな姿でデビュタントなんて出たくないよ』


 手を繋がずとも外を歩けるようになっても、相変わらず彼は内気で自分に自信が持てないままだった。

 家族に心配をかけているからと剣や勉学に全力を尽くしていたのに、それをアッサリ諦めるというのか。


『それに父上が言ってたんだ。平民になればアンナと結婚出来るんでしょ? だったら──』


 それ以上聞きたくなくて、気が付けば彼の頬を叩いていた。


『あ、アンナ……?』

『お前、分かっているのか。姓を捨てたら家族でなくなるんだぞ!』


 使い始めた女言葉など放り出してアンナは叫ぶ。


『オレが知るモリソン・ノルジタインは、家族と領地のために努力してきた! 容姿で馬鹿にされようと、腐らず領民のために尽くしてきた! お前は立派な貴族だ!』


 ずっと隣で見てきた。剣を振るう度に出来た血豆や、挫折の度に流す涙も。

 どうして彼が家族を捨てなければならない。“醜い”なんて下らない理由で。


『オレが認めた男を、お前が貶めるな! ──逃げる理由にオレを使うな!!』


 心からの叫びだった。

 胸が張り裂けそうに痛くて仕方がなかった。


 泣き出したアンナに彼は謝ってくれたが、痛みが癒える事はなかった。

 子供をあやすように抱き締められると更に痛みが増して、アンナは泣きながら逃げた。そのせいで周囲にも知られてしまった。


 後日改めて彼から謝罪を受け、一旦は元通りになったかのように見えた。

 しかし皆がアンナを気遣っていると気付いてしまってからは、居心地の悪さに堪えられなくなった。


 故郷を飛び出し、王都でようやく働き口を見つけた日。その祝いに彼からもらった紅茶缶を初めて開けた。

 彼の瞳の色に似た、アンナの大好きなレモヌの紅茶。カップに注ぐ瞬間が楽しくて何度も母に教わった。


 独りで淹れた紅茶の色は以前と同じはずなのに、なぜかくすんで見えた。


 思えば、彼に会う前からレモヌの紅茶を飲んでいた。その時は色なんて気にならなかった。


 彼の瞳を初めて見た、あの時。

 この色が綺麗だと思ったのは──“彼”の瞳だから。

 この色が好きになったのは──“彼”が、好きだったから。


 彼の求婚に胸を痛めたのは、アンナを逃げ道に使おうとしたからだけじゃない。

 彼はアンナを幼馴染としか思っていなかった。少しでもアンナを意識していたら、あんな求婚などしなかったはずだ。


 アンナは泣いた。求婚を拒んだ時よりも泣いた。


 何度あの瞬間に巻き戻ったとしても、アンナは同じように拒んだだろう。

 でももう少し言い様はあったはずだ。デビュタントがどんなものかも知らないで、家族を捨ててまで逃げたくなった彼の気持ちを考えてあげられなかった。


 こんな女、好きになってもらえるはずがない。


 もう彼は手に入らない。高位貴族で居続ける事を選んだ彼が、平民のアンナを娶る理由はなくなった。子爵家の養子になったとしても家格が釣り合わない。


 あれが最初で最後の好機だった。

 彼はもう別の人のものになる。アンナにだけ見せてくれる瞳も、豆だらけの手も、腕を回しきれない大きな背中も、優しく名前を呼んでくれる声も、全て。


 こんなに愛しているのに、彼はアンナの隣では幸せになれない。


『泣かないで、アンナ』


 優しく頬を撫でる大きな手を、思わず両手で握りしめた。


ーーー


 ──熱い。


 アンナが寝返りをうつと、ひやりとして硬い何かにぶつかる。

 ふわりと香る森林のような匂いに不思議とホッとして、両手を回して抱きついた。


 そのまま眠ろうとした矢先、すぐ近くで名前を呼ばれる。


「アンナ……? 起きたの?」


 額を撫でるように前髪をかき上げられる。硬い指先なのにどこか優しい。


「まだ熱があるね。水飲もうか」


 離れようとするので必死にしがみついた。

 手放したらいけない。そんな気がした。


「アンナ?」

「いや……」

「すぐ戻るから」

「いやだ……」


 これは夢だ。馬鹿馬鹿しい下らない夢。

 紅茶缶は捨てたのに、アンナの中で燻る未練が愚かな幻を見せている。


「可愛いね、アンナ」


 子供のように片腕で抱き上げられ、どこかへ移動する。


「ほら、水飲んで」

「いや……」

「アンナ」


 彼の困った声が好きだった。彼に頼られるのが嬉しかった。


 耳を澄ませながらウトウトと微睡んでいると、彼の手によって顎を持ち上げられる。

 ヒヤリとして柔らかいものが押し当てられ、少しずつ水がアンナへと与えられていく。なぜか口の中が滲みたが、喉を冷たい水が通るのは心地よかった。


「ん……」


 口移しだ。

 子供の頃に知って、彼と練習した事がある。意外と冷え性な彼の唇は冷たくて、驚いて顔に水を吐き出してしまった。


 冷たさに慣れたら今度は唇の感触が気になってしまい、最後は口移しの事など忘れて噛みついて遊んでいた。

 気が済んだ頃には彼の唇が真っ赤に腫れあがり、アンナの悪事はすぐにバレた。なぜか彼はその後も口移しの練習をしたがったが、どうしても噛みつきたくなるアンナは嫌がった。


 与えられる水が無くなり、アンナは唇に噛みついた。

 しかしすぐに離されてしまう。


「駄目だよ。明日もメロエッタ嬢に会わないといけないから」


 ガツンと頭を殴られたような衝撃だった。

 妄想に浸るアンナを嘲笑うように無情な現実が姿を見せる。


「っひ、」

「アンナ」

「ふ、ぅ……う……っ」

「泣くくらいなら、紹介しなければよかったのに」


 それでも妄想にすがって泣くアンナを、現実は甘く責める。

 アンナは紹介などしていない。侯爵家で働くようになって、この家の令嬢が醜男好きと知って複雑な気持ちになったが、メルに言った通り彼を忘れる事に必死で、紹介する以前の問題だった。


 彼のために一度は手を振り払った。恋を自覚して、故郷に戻って彼にすがりたい衝動を何度も何度も踏み潰した。

 ようやくレモヌの紅茶を見ても懐かしさしか感じなくなっていたというのに、あの侍女が彼を“怪物”と呼ぶから。メロエッタが──アンナに尋ねるから。


 彼の名を口にしてしまったあの瞬間から、死んだはずのアンナの恋が息を吹き返した。


「うーっ、ぅ……うっ」

「ごめんね。アンナの立場なら仕方ないのに、つい意地悪しちゃった。僕の方こそ謝らないといけないのにね」

「……っひ、」

「ほら、水飲んで」


 また口移しをされるが、懲りずにまた噛みついた。

 妄想でも現実でもどうでもいい。メロエッタに会えなくしてやりたかった。


「こら」

「、む」

「相変わらずやんちゃな猫だね、アンナは。──本当に可愛い」


 口に親指を挟み込まれ、また唇が触れる。

 なぜか水が注がれないまま、暫くして離れた。


「? ……なに?」

「何だと思う?」

「……わからない」


 分かってはいけない。

 これは子供の頃の他愛ない行為。そうでなくてはいけない。


「嫌?」

「……みず」

「欲しい?」

「……ほしい」


 喉が渇いたから。身体が重くて自分では飲めないから。

 夢の中でも必死に言い訳を並べる自分は、なんて惨めなんだろう。


 唇が触れる。水は注がれない。

 アンナは閉じていた瞼を上げた。


 暗闇の中、金の縁の黄色い瞳と目が合った。


ーーー


 ──酷い夢を見た。

 怪我の痛みが無ければ、また勢いのまま脱走していたに違いない。


 寝る前と物の配置が変わっているとか、寝巻きや包帯の巻き方が変わっているとか、そんな事はない。ただの記憶違いだ。そうでなかったら脱走してしまう。

 アンナはベッドの上でシーツの山と化した。


 無意識に枕元へ手を伸ばし、紅茶缶が無い事に気付いて我に返る。


「……食事にしよう」


 昨日の今日でメルは来ないだろう。寝巻きのまま、調理場の傍にある水瓶の水を汲んで顔を洗う。

 何を作ろうかと考えていると小屋のドアを叩く音が聞こえた。


「メル?」


 寝巻きだったのでドアを開けるのを躊躇い、声をかける。


「──僕だよ」

「!」

「久しぶりだね、アンナ。会いたかったよ」


 ドクリと、心臓が音を立てた。


 咄嗟にドアの取っ手を握る。鍵は閉まっていた。

 アンナは鍵を渡されていない。流石に彼もドアをこじ開けはしないだろう。

 そこまで考えて、ようやくアンナは落ち着きを取り戻した。


「……お帰りください」

「どうして?」

「それは……」


 答えられない。

 アンナと彼の関係は幼馴染だ。求婚も既に拒んでいる。

 密室で会うのは問題だろうが、既にメロエッタに疑われている。


 彼がアンナを妾にするという話もメロエッタから聞いた話だ。その真偽がどちらにせよ彼は否定するだろうし、アンナは妾になるつもりはない。


 会いたくないのはアンナ自身の問題だ。


「侯爵から、誰かに階段から落とされたって聞いたよ。まだ立つのも辛いでしょ? 食事を持って来たから一緒に食べよう」

「……、……」

「アンナ」


 そんなに優しい声で名前を呼ばないでほしい。

 アンナは涙がこぼれそうになるのをグッと堪える。


「…………会いたくない」

「……そう。残念だな」


 悲しそうな声に胸が痛んだが、諦めてくれそうな雰囲気に肩から力が抜ける。


 しかし次の瞬間、突然ドアが開いてアンナは前のめりに倒れそうになった。

 それを危なげもなく受け止めた身体からは、森林のような香りがした。


「ごめんね。でも色々話しておきたい事もあるから」

「な……な……っ」

「容易にドアを開けなかったのは良かったけど、その格好は目に毒だよ。相変わらず自分の事には雑なんだから」


 彼が脱いだ上着を被せられ、共に部屋に入る。

 ドアが閉まった音に我に返ったアンナは、彼の指摘に顔を真っ赤にした。


「き、着替えるから出てって!」

「今更恥ずかしがるような間柄じゃないでしょ。ベッドで一緒に寝た事もあったし、裸だって見せ合ったし──」

「うるさい! うるさい!」


 幼い頃の自分はとんでもなかった。幼い彼を自分のものだと思い込んで様々な事をした。

 夢の中の口移しを筆頭に、寝ているベッドに侵入し、風呂場にも特攻した。川遊びの延長で服を脱がせ合ったりもしたし、更にはもっと──。


 もし性別が逆だったら、アンナは責任を取って婚姻しなきゃいけなかっただろう。

 彼が“醜く”、アンナが平民の女児だったから大目に見られていたのだろうが。


 アンナが涙目で睨むと、彼は「やれやれ」と言わんばかりに肩をすくめた。


「分かった。今度は、ちゃんと開けてくれるんだよね?」

「……約束する」


 ドアから出ようとした彼は、何かを思い出したようにアンナの耳元へ口を寄せた。


「女の子みたいに恥ずかしがるようになったんだ。──可愛いね」


 そう言い残すと今度こそ小屋を出て行った。

 へなへなと腰を抜かすアンナ一人を残して。


「…………完全に別人じゃない……」


ーーー


 アンナは身嗜みを整えると、彼を改めて招き入れた。


 「怪我人だから」と説き伏せられ、席についたアンナの前に食事が並べられる。

 そのどれもが懐かしいものばかりで思わず息を呑んだ。


「これって……」

「コルネだよ。彼女にも王都に来てもらったんだ」

「……伯母さん……」


 思えば、彼女にこそ一番心労をかけてしまっているのかもしれない。伯母の縁があってこそ、アンナと彼は出会ったのだから。


 野菜スープを一口飲む。子爵家へ招いてもらった時によく飲ませてもらった味だった。


「……伯母さん、何か言ってた?」

「“手紙くらいは送ってくれると思ってたのに”って。何で送らなかったの?」

「……何を書けばいいのよ」


 元気でやっている。王都で働けて楽しい。とでも書けばよかったのだろうか。実際は失恋と未練と過去の恥で苦しみもがいていたというのに。

 嘘を書いたところでどうせ母には悟られる。余計に心配をかけるだけだ。


 向かいに座った彼は、ふてくされたアンナを見て苦笑する。


「嘘が下手だからね、アンナは。実際のところ、辺境を出てから侯爵家で働くまで護衛を付けていたし、王都の情報収集のついでに適宜報告は受けていたから、それほど心配はしてないよ。まあ、君の母上からは相当叱られると思うけど」

「…………」

「大丈夫。いつもみたいに手を握っててあげるから」

「なんで見届ける前提なのよ」


 母に叱られる時は、隣で手を握っていてくれる彼が心強かったが、今回ばかりは遠慮してほしい。

 きっと母には故郷を飛び出した理由も、故郷に戻れない理由にも気付いているはずだ。


 アンナは食事を続けながら、前方から異様に注がれる視線から目をそらす。


「それで、何なの? 話したい事って」

「……一番に言いたい事があるけど、それは今度にする。今言ったところで信じてもらえないだろうから」

「……それで?」

「だから次の──婚約の件なんだけど……結論から言うと、僕はメロエッタ嬢と婚姻するつもりはない」


 沈黙。窓の外から鳥の声が聞こえてくる。


 ──何を言っているんだ、この男は。


「婚約したのに? おじ様だって喜んでたじゃない!」

「あれは完全に父上の早とちりだ。侯爵家からの釣書に君の手紙も同封されていたから、アンナが侯爵家の養子になって僕に嫁ぐつもりだと勘違いしたんだ。それでロクに内容も読まず、家族にも相談せずに早馬で了承した」

「…………え」

「説明は省くけど、父上は君が故郷を離れた事に責任を感じていて……。すぐに兄上が気付いて訂正の早馬を飛ばしたけど……結局、二通とも手紙が届いて、侯爵は訂正した方を握りつぶした」

「えええ……」


 確かに、侯爵の話では一度メロエッタとの縁談は断ったはずだ。それなのにあの手のひらを返すような手紙は、いくら心境の変化があってもおかしい。


 辺境伯は因習を嫌って他国の王女を娶ったが、“醜い”息子がデビュタントを嫌がっても許すほど息子に甘い。だから彼も快諾したのだとばかり思っていたが、裏でそんな事故が起きていたとは。


「顔合わせが先延ばしになったのは、それで揉めていたからなんだ。メロエッタ嬢の噂は聞いていたからね。会ってしまったら、なし崩しになるのは目に見えていた」

「……なら、どうして来たの?」

「横やりが入って条件が変わったから。内容はまだ話せないけど、こちらにとっても都合が良かった。最初は婚約して早々に嫌われようかと思ってたけど──気が変わった。アンナには悪いけど、あと半年はココに居てもらう」

「半年って……」


 挙式をするつもりなのか。メロエッタを気に入って、婚姻したいと考え直したのか。

 尋ねる事が出来ずに唇を震わせるアンナに、彼は静かな視線を返す。


「だいぶ危険な賭けだけどね。勝算はあるよ。──信じて」


 本当に信じていいのだろうか。そう期待させて、挙式で幸せな二人を見せつけて絶望に突き落とすつもりじゃないのか。

 妾にしようとしているのも、求婚を拒んだアンナへの復讐なのだとしたら──。


 彼はそんな人じゃない。そう信じたい。

 でも、会っていない間に別人のように変わってしまった。


「ごめんね、アンナ」


 いつの間にか彼がすぐ隣にいて、アンナを抱き締める。

 安心できる胸の中だけは、幼い頃と変わっていない。


「知らない方が辛いと思ったんだけど、余計に混乱させちゃったかな」

「……」

「深く考えなくていい。アンナが嫌がる事はしないから。……約束」


 “約束”。二人だけの合言葉。

 必ず守るという誓いの証。


ーーー


 それからほぼ毎日彼はやって来るが、彼が来ない日はメルが様子を見に来る。


「王都で噂になってるわよ。アナタの旦那」

「……やめて」


 彼のせいで感情が出やすくなったアンナの反応が面白いのか、メルにからかわれるようになった。

 些細な事で顔が熱くなる自分が嫌になる。アンナは彼女が持ってきたクッキーを噛み砕いた。


「連日、お嬢様が王都で連れ回しているわ。先週は伯爵夫人の茶会に乱入して、令嬢達を失神させたそうよ」

「……彼は見世物じゃないわ」


 いくら人目に慣れたとしても彼の心が痛まないはずがない。

 それに彼は静かな所が好きなのだ。メロエッタに教えていないのだろうか。


「このままじゃ倒れてしまうわ。それとなくお嬢様に郊外へ行くように誘導出来ない?」

「洗濯婦には荷が重いわ。というか、ここは“あんな女に渡してやるものか!”ってなる所じゃないの? アナタ殺されかけたのよ?」

「獣だって縄張り争いで殺し合うのよ? 辺境だって、いつ戦場になってもおかしくないもの。嫁いでくるならあれくらいじゃないと」

「え、何? 辺境ジョーク? こわ……」


 アンナも聖人ではないので、メロエッタに対して思うところはある。

 でも不本意とはいえアンナが招いた縁談だ。どの面下げて反対すればいいのか分からないし、高位貴族同士の婚姻を平民がひっくり返せる訳がない。


 口から出そうになるため息を、紅茶を飲んで誤魔化すと、メルは何かを思い出すように笑った。


「そうそう。話を戻すんだけど、お嬢様のデートの影響で面白い事が起きてるのよ」

「面白い?」

「王城の夜会に“醜い”子息子女が参加するようになったらしいの」


 デビュタントは、十五になった子息子女が王城で年に一度開かれる特別な夜会に参加し、王に名を呼ばれる事で貴族として認められる通過儀礼だ。

 事情があって十五でデビュタントに参加出来なかった者は、王城の夜会で王に名を呼んでもらう。


 しかしそれは王族の寛大さを示すためだけの法で、実際に行った者は居なかったはず。アンナも王都に来てから図書館に通って勉強したのだ。


「言い方は悪いけど、アナタの旦那が貴族として認められて侯爵令嬢と婚約してるってのに、“アレよりマシな”自分の子達が貴族じゃないのが気に入らないのね」

「でも……凄い事だわ」


 一度姓を捨てれば取り戻せない。それなのに王城へ入れたという事は、姓を捨てずに家族によって隠されていたのだろう。

 もしかしたらそういう人達が、影ながらこの国を支えてくれていたのかもしれない。


 きっと誰もが馬鹿馬鹿しいと思っていた因習。

 彼のお陰で、ようやくこの国が変わろうとしている。


「反発している貴族もいるみたいだけど、王家が抑えているみたい。意外よね。そもそも王様が命令したら済む話じゃない」

「……旦那様に“今日から洗濯用の洗剤を変える”って言われても、はいそうですかっていかないでしょ。下手をすると洗うのに手間取って干すどころじゃなくなるわ」

「なるほど! 王様って頭良いのね!」


 調子の良いメルに苦笑しながら、アンナは腹の底が冷えていくのを感じた。


 なぜ気付かなかったのか。

 侯爵と辺境伯の話し合いに横槍を入れられるのは、王家くらいのものだ。


 “醜い”者は貴族として不適格──その意識を変えるため、彼とメロエッタの婚約は利用された。

 王家にとっては、このまま婚姻してくれた方が都合が良い。それなのに彼は本当にメロエッタと婚姻しないつもりなのか。


 結果がどうなろうとアンナは構わない。自分で蒔いた種だ。

 しかし──彼の幸せはどうなる。


 思えばずっと、アンナは彼に対して横暴だった。

 

 伯母が困っているという身勝手な理由で、アンナは彼を部屋の外へ連れ出した。

 立派な貴族になってほしいという傲慢な理由で、アンナは彼の手を振り払った。


 彼を見世物にするメロエッタに不満を抱いたが、彼を一番弄んでいるのはアンナではないのか。


「アンナ? どうしたの?」

「……ううん。なんでもない」


 この茶番を終わらせなければ。

 アンナは一人、決意を固めた。


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